「イラクにいき隊!」
"Go Alive and Well @Iraq Company ! "
2003年2月17日(月) バグダッド 第1日目 Baghdad 1st Day |
View from the Hotel Window (1) | View from the Hotel Window (2) |
University of Baghdad (1) | University of Baghdad (2) |
University of Baghdad (3) | Excursion Bus |
Baghdadi House ? (1) | Street Scene (1) |
Street Scene (2) | Baghdadi House ? (2) |
Street Scene (3) | Al-Mustansiryah School |
Fish Restaurant | Wedding @Ishtal Hotel |
お仕着せの「観光」より、早く街に出たかった。 バグダッド第1日目の朝は7時過ぎに自然と目が醒めた。睡眠時間は短かったが、これからいよいよ街に出るのが楽しみだったので、苦にならなかった。それに2人用の部屋に1人ずつなので快適だ。窓からバルコニーに出ると左手に何というのかわからないがモニュメント(単なるロータリー?)とモスク、右手にティグリス川が見える(View from the Hotel Window を参照)。実は川向こうに大統領宮殿だか何だかが建っていて、後でわかったのだが、この日の夕方、川の畔で写真を撮っていて僕が拘束されたのは、この建物が原因だったらしい。 ロビーに降りていくと、渡部陽一さんというフォト・ジャーナリストの一行や広河隆一さんを初めとするピースボートの一行など、パレスティナ・ホテルには僕たちの他にも日本人が何人も同宿しているのがわかった。この日の夜にはジャミーラ・高橋さん率いるイラク国際市民調査団の約30人が到着して同じホテルに投宿すると聞いていたし、僕たちより早く喜納昌吉さんらを中心とするグループの約20人もすでにバグダッド入りして平和活動を始めてるはずだった。この時期、日本人だけで100人近くが反戦のためこの地に集まったことになる。 ホテルの銀行でとりあえず20ドルを40.000ディナールに両替した(ホテルでのレートは1ドル→2.000 ID、市中レートは1ドル→約2.300 ID)。NASYOのプログラムに参加中はホテルの宿泊代と食事代は基本的に無料だったし、ドルも使えたので、結局、イラクに滞在中、ディナールの余ってる塩見孝也さんとあと1回、10ドルを22.500 IDに両替しただけだった。 イラクで主に流通してるのは250 IDの紙幣である(写真→■)。他に10.000 ID、100 IDの紙幣も見かけたが、僕が主に使ったのは250 IDの紙幣だった。地元の人たちがどうやって勘定してるかはよくわからないが、タクシーの値段交渉などのとき、○○まで何枚、というふうに僕は運転手とバーゲニングした。ちなみにホテルの構内で客待ちしてるタクシーはドルで高額な(といっても数ドル程度だが)料金を請求してくるので、流しのタクシーがお奨めである(ただし英語をまったく介さない運転手もいる)。僕は一番少なかったとき近場まで1枚(約10円)で乗れた。 クーポン券でブレックファストを食べて、NASYOの用意したバスで午前中のエクスカーションに出発した。最初にバグダッド大学工学部を訪ねた。バグダッド大学は市内南方に位置するが、歩いて通学するのは不可能に思えるほど広大なキャンパスだった。 校内にはこれがイスラム圏かと思えるほど自由な空気が漲っていた。イラクが中東で最も世俗的な国の1つと言われるのも故なきことではないと思った。女子学生に、いっしょに写真撮っていいですか、と話しかけると、即座に笑顔でOKしてくれた(これだけで日本から三脚を用意してきた甲斐がある!)。これは僕だけの経験でなく、僕たちの訪問団員のほとんどが彼女らと楽しく歓談して記念撮影をしている(もちろん男子学生とも)。他の学部のことはわからないが、ここでは拙いながらも、けっこう、英語が通じた。 次の訪問地はバグダディ・ハウスであった(と思う)。名前には自信がないが、博物館のようなところである。お仕着せの「観光」より、僕は早く街に出たかったので、バスが建物の前に横づけされると、皆が建物の中に吸い込まれるのを見送って、中には入らず、時間を見計らって、1人で周辺を散策した。周辺は靴屋さんのバザールのようだった。大小さまざまの靴屋さんが表通りや路地の奥までびっしりと並んでいた。僕がカメラを向けると、皆、うれしそうに、自分を撮れ、とばかりにポーズした。僕は若い頃、中東の国はけっこう廻ってるのだが、ああ、懐かしいなあ、と楽しくなった(ただし昔は旅のときはカメラを持ち歩かない主義だった)。表通りには2階建てのバスが走りまわり、そこだけはロンドンの街を彷彿させた。 15分ほどあたりをぶらぶらして、まだ大丈夫とは思ったが、安全のため早めにバグダディ・ハウスに戻ってみると、すでに出口から出てくる人たちがいた。ああ、間に合った、と安堵したが、まだ出発の時間には余裕がありそうだったので、出口の方から逆に中に進んでみた。ちょうど鈴木邦男さん、塩見さん、PANTAさんたちがアラビアふうの衣裳を着てポーズしてるところに出くわした(Baghdadi House ? (2) を参照)。 次の訪問地は(といっても歩いてすぐのところだったのだが)ムスタンシリア神学校、イラクで一番古い神学校である(たぶん)。そして午前中の「観光」を終えて、僕たちはホテルに戻った。(3/6) |
You go to Hotel. But camera tomorrow. 最初、成田出発から帰国までを時系列に従って順を追って書いていこうと思っていたのだが、そのやり方ではとうてい最後まで辿りつけないと思い、適当に思いついた順序で書いていくことにした。今回のイラク訪問で個人的に一番緊張したできごと、それはバグダッド到着初日の警察だか軍だかによる拘束・デジカメ没収事件だった。NASYO(非同盟学生青年機構)が用意してくれた午前の市内エクスカーションを終え、パレスティナ・ホテルに戻った後、遅いランチを食べ、しばらくインターネットで遊んで(1時間、1ドル以下で利用できる)、午後の市内エクスカーションはふけて、夕方4時頃、1人で街に出た。 ホテルの前のティグリス川に沿って(↑の View from the Hotel Window (2) を参照)、生け簀で魚を飼ってるフィッシュ・レストラン(↑の Fish Restaurant を参照)や河川敷でサッカーに興じている少年たちを見ながらぶらぶら左の方に歩いていった。橋の写真は撮ってはいけないと聞いていたが、川そのものは撮ってはいけないと聞いていなかったので、いいスポットがあったら、間近からティグリス川の写真を撮ろうと思っていた。 川のすぐ手前に平屋建ての建物が並ぶ敷地があり、門が開いていて、中に入ってすぐのところからいい写真が撮れそうだった。門の附近におじさんが1人立っていたので、Hello! と挨拶して、中に入ろうとしたら、NO! と言われた。それで中に入るのは諦めて、敷地の外から川の写真を1枚撮った。一応、撮ったが、障害物があって、敷地の中からのようにはいい写真が撮れそうになかったので、川の写真を撮るのはやめて、すぐにサッカー少年たちの方に引き返した。パレスティナ・ホテルと通りを隔ててすぐ隣りに建っているイシュタル・ホテルとを背景にして(↑の View from the Hotel Window (2) で画面手前左側に少しだけ見えているのがイシュタル・ホテル)河川敷でサッカーに打ち興じてる少年たちの写真を2枚ほど撮った。今となっては見れないが、これはけっこういい写真が撮れてたと思う。 後ろから声をかけられた。振り返るとさっきのおじさんが立っていた。手招きするので何だろうと思い近寄っていったら、アラビア語なので何を言ってるのかよくわからなかったが、ときおり混じる英語の単語から判断すると、カメラを見せろと言っているようだった。あとで考えるとこのとき素直にカメラを渡してしまったのがまずかったのだが、そのときはあまり深い考えもなしに、すぐに返してくれると思い、おじさんにカメラを渡した。私服を着てたし、この人が警察あるいは軍の関係者だとは思っていなかった。建物も民間のものだと思っていた。おじさんが身振り手振りで、ついてこい、と言うので、カメラを人質に取られてたし、仕方なく施設の中について行った。このときはまだそれほど大事になるとは思っていなかった。 敷地の中には2つか3つのそれぞれに非常に小さい平屋建ての建物が建っていたが、そのうちの1つに案内された。ソファがあって、坐れと言う。いつの間にか部屋の中には男たちが5.6人に増えていた。そのうちの1人くらいはあるいは制服を着ていたかもしれない。名前を訊かれたのでパスポートに書いてあるとおりの名前を答えた。パスポート、と言うので、In Palestine Hotel と答えた。アラビア語と英語とが併記されているNASYOのプログラムを見せたり、あなたたちは警察か? 私はイラク人の友人でイラク政府の招きで反戦と平和のために日本から来たのだ、とか英語で話したが、まるで通じてる気配がなかった。男たちが出たり入ったり、どこかに電話したり、お菓子食うか、と言われたりして、どのくらい時間が過ぎただろうか、そのうちまた、ついてこい、と手招きされた。 クルマに乗せられた。クルマの中には僕の他に2人か3人乗っていたが、全員私服だった。こいつらいったい何者なんだろうか? 警察か? だったら少なくとも身ぐるみ剥がれることはないだろうけど、全員私服を着てるし、クルマも民間のものと区別つかんし、まさか追いはぎじゃないだろうな、と少し心細い思いが湧き起こってきた。気分的には、あたりは夕方とはいえ、まだ明るかったのが救いだったが、クルマは橋を渡り、いずくへか知らず走っていく。 10分か15分ほど走っただろうか、警察か軍かわからないが、門のところで衛兵みたいな男たちと何やらやりとりして、クルマは政府の施設らしき敷地の中に入っていった。日本でいえば、最初に拘束された川沿いの施設を仮に交番とすれば、○○警察署くらいの感じだった。 門を入ってすぐのところの詰め所のような建物に通された。部屋は10畳くらいの広さで、男が1人でTVを見ていた。ソファがいくつか並んでいて、入り口を入ってすぐ、TVの前のソファに坐るよう指示された。僕を連れて来た男たちは部屋の中には入ってこず、建物の外で何やら鳩首凝議している。カメラもどこにいってしまったかわからない。様子を見ようとドアのところから外を覗くと、中にいろ、と指示された。男が、ティー、飲むか、と訊くので、イエス、と答えると男は隣りの台所らしき部屋に立っていって、部屋に1人残された。カメラはともかく、スマートメディアはヘタすると没収されて返ってこないかもしれない、とこのときには思い始めていたので、ウェイスト・バッグに入れてあったスマートメディア(パスポート、航空券、現金、デジカメの次に大事だと思ってたので、このときまでは日本からもってきた7枚をすべて持ち歩いてた)を体のあちこちに分散して隠した。といってもそのとき使っていたスマートメディアがまだ1枚目で、他のスマートメディアにはまだ何も写っていなかった。台所から戻ってきた男といっしょに甘ったるいシャイを啜りながら、男に旅のアラビア語会話の本を見せたりしてご機嫌を伺い、早くカメラを返しくれるように外の男たちに頼んでくれないか、と言ってみたりもしたのだが、何しろ英語がほとんど通じない。そうこうしてる間にまた、来い、と手招きされ、再びクルマに乗せられた。 幸い外にははまだ明るさが残っていたが、しばらくしたら夕闇が迫ってきそうな気配だった。再び橋を渡ったような気もするが、すでに記憶が曖昧だ。また10分か15分か走って、日本でいえば警視庁か警察庁に当たるくらいの感じのヘッドクォーターのようなさらに大きな施設に到着した。ゲートをくぐってすぐの詰め所のような建物に通された。 最初の部屋の中では制服を着た男たちが10人近く(中には私服も混じっていたような気がする)、何やら執務したり、雑談したりしていた。なるべく明るく装って、Hello! だか アッサラーム・アライクム だかと挨拶したが、そのままさらに奥の部屋へと通された。 奥の部屋は30畳くらいあるのじゃないかと思うくらい広いつくりで、ソファがずらりと四囲の壁に沿って配置されていた。そのままソファの配置を変えずに数十人で会議ができるほどに広かった。ここに1人で取り残されたときにはかなり心細くなってきた。それまでは今回の事態を割と軽く考えてたのだが、このままここに泊まらされるのじゃないか、このまま何日も留め置かれたら訪問団の人たち、わしのこと置いて帰っちゃうぞ、だいたいわしが拘束されてること、ちゃんとあっちに連絡いくのか、爆撃始まったら、わし、ひょっとして人間の盾? とかいろいろ悪い想像をめぐらしてしまった。このときの時刻が5時45分くらいだったと思う。ということは最初に拘束されたのが4時15分くらいなので、すでに1時間半くらい経過していた。 悪い妄想に襲われながら、その部屋で10分くらいがまんしてたのだが、そのうちじっとしていられなくなり、立ち上がった。何かしてないと落ち着かないので、ドアを開けて、トイレに行きたい、と言った。すると男が1人先に立って、狭い通路を奥のトイレまで案内された。そのときはおしっこも溜まってたので、しゃーしゃーと気持ちよくおしっこが出たが、すぐに尽きてしまい、また1人、だだっ広い部屋に戻された。さらに5分くらいがまんしていたが、精神状態が段々と不安定になってきた。何かアクションを起こさないとほんとに今日はホテルに戻れないぞ、と思い始め、立ち上がって、ドアを開けた。 机の上に僕のデジカメが置いてあった。制止される前にすかさずそれを取り上げ、I can show you my pictures と宣言して、液晶モニタ・ボタンを押した。液晶モニタにパレスティナ・ホテルとイシュタル・ホテルとを背景にして河川敷でサッカーに打ち興じてる少年たちの姿が現れた。男たちがざわざわと僕とデジカメとを取り囲む。十字ボタンを押して1つ手前の写真に戻した。もう1枚、サッカー少年たちの写真が現れる。さらに十字ボタンを押した。次がいよいよ問題の写真だ。ティグリス川が映っている。You see! と僕は言った。僕が拘束されたときに写してた写真はこれですよ! 全然、問題ない写真でしょ! リーダーらしき男が写真をすべて見せるよう僕に促した。僕は十字ボタンを次つぎと押して写真をすべて彼らに示した。男たちの表情を見ていて、ひょっとしてこれで解放される? と少しリラックスした気分になった。今度は1枚目から順番に見せるよう言われたので、そのとおりにした。しばらくカメラをオモチャにされたが、男たちはアラビア語で協議を始めた。 You go to Hotel. But camera tomorrow. 6時12分だった。いきなり何かそれに近い英語を言われた。え、帰っていいのか。でもデジカメは明日? リーダー格の男にホテル・カードを示して、Palestine Hotel 1120 と何度も念を押し、Tomorrow what time ? と訊いて In the morning と回答をもらった。このままカメラをここに置いて帰ると、カメラをいじりまわされ、途中でバッテリーが切れる危険性を感じたので、身振り手振りに英語を交えて、カメラをあまりいじらないよう説明した。建物の外に出るよう促され、クルマに乗せられた。あたりはすでに夕闇だった。どこだかわからないが、夜のダウンタウンをしばらく走り、目の前にパレスティナ・ホテルが見える路上で降ろされた。6時30分、僕は自由の身となった。 方向感覚を失っていたので、間違えてイシュタル・ホテルの敷地の方に入ってしまった。何かお祭り騒ぎをしていた。近づいてみると、結婚式だった。ほっとした気分の中で僕も浮かれた気分になった。予備に「写ルンです」をもっていたので、何枚か写真を撮らせてもらった(↑の Wedding @Ishtal Hotel を参照)。あまりうまく写っていないが、僕にとっては記念すべき1枚となった。パレスティナ・ホテルに戻ると、ロビーにおじさんたちがいて、笑って何か話していた。(3/2) |
「ブッシュ政権のイラク攻撃に反対する会」 イラク訪問団 | |
2月 7日(金) | 結団式・説明会 @ルノアール新宿区役所横店 |
2月13日(木) | 記者会見 @LOFT/PLUS ONE |
2月15日(土) | 11:00 成田発 → 15:00 アムステルダム着 (KL862便) 19:15 アムステルダム発 → 翌00:55 アンマン着 (KL405便) |
2月16日(日) | アンマン発 → バグダッド着 (陸路) |
2月17日(月) | バグダッド市内で行動 |
2月18日(火) | バグダッド市内で行動 |
2月19日(水) | NASYO「イラクへの戦争と侵略に反対する国際会議」 |
2月20日(木) | NASYO「イラクへの戦争と侵略に反対する国際会議」 |
2月21日(金) | NASYO「イラクへの戦争と侵略に反対する国際会議」 |
2月22日(土) | バグダッド発 → アンマン着(陸路) |
2月23日(日) | 02:15 アンマン発 → 06:40 アムステルダム着 (KL406便) 14:15 アムステルダム発 → 翌09:25 成田着 (KL861便) |
2月24日(月) | 09:25 成田着、解散 |
3月 4日(火) | 「イラクの現在、最新報告!」 @LOFT/PLUS ONE |
NASYO=Non-Aligned Students and Youth Organization(非同盟学生青年機構)