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Also Sprach Mkimpo Kid
1998年01月21日(水)
価値は実体ではない。Aは非Aの存在により、初めてAとして認識される。Aはたとえばアルファベット26文字の第1字としてAであり、小文字のaに対する大文字のAである。
犬は猫や人間に対して犬なのであり、「犬」という実体があるわけではない。日本人は中国人や朝鮮人に対して日本人なのであり、「日本人」という実体があるわけではない。
あらゆる観念は自立的でなく、関係的である。あらゆる価値は絶対的でなく、相対的である。
あらゆる差別に実体的根拠は存在しない。あらゆる差別を解消する運動は差別の無根拠性にその根拠をもつ。
☆
知性と感性とを2項対立することに如何なる根拠があるか? 知性といい感性といい、自然科学的知見に基づき数式や化学式、論理式等に表現され、厳密に定義された概念ではない。知性と感性とを2項対立し、どちらかの優位や劣位を云々する姿勢そのものが、そもそも観念的なのではないか?
1998年01月22日(木)
ある概念の説明は、常にトートロジー(同語反復)を逃れられない。このことは手許にあるどの「国語辞典」を繙いてみても、すぐに確かめられることである。たとえば広辞林で「概念」を引く。
【概念】多くの事物や事象から、ある共通の内容が抽象されてできる一般表象。
【表象】あらわれた形。
【形】視覚・触覚などによって知りうる物体のさま。
【さま】ありさま。
【ありさま】物事のある様子。
【様子】ありさま。
たとえある概念をメタ言語を使って記述したとしても、さらにそのメタ言語を記述するためのメタ・メタ言語が必要になる。世界の説明は常に無限循環のうちにある。
言語は恣意的体系である。シニフィアン(形式)とシニフィエ(意味)との結合が恣意的であり(なぜ「犬」というシニフィエは「イヌ」というシニフィアンで呼ばれねばならないのか)、シニフィアンやシニフィエの分節自体が恣意的である(なぜ連続する色を有限数の文化ごとに異なる色名として分節するのか)。
ただし「絶対者=神」の存在を導入すれば、価値の恣意性や無根拠性を免れることができる。しかし不可知論者の僕には、あらかじめその道は閉ざされている。
価値の恣意性や無根拠性を所与として受認するとき、だがラング(所与としての社会言語)とパロール(実践としての個人言語)のダイナミックな関係のうちに、微かな希望が見いだせはしないか? イメージを異化するための新しい言葉を次つぎと紡ぎ出しつづけること、Web上で、そして現実でも。
人間の自由は言語の恣意性にその根拠(無根拠)をもつ。
真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は3次元よりなるかとか、精神には9つの範疇があるのか12の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。(カミュ「シーシュポスの神話」)
存在に意味はあるか? これはアポリアである。答えることができない。なぜなら意味は常に特定の主体と対象との関わり合いにおいて限定的な形でのみ現れるからである。しかもそれには根拠がない。
〈私〉にとって存在の意味は何か? このように問い直してみる必要があるだろう。だがこのように問いの形を変えてみても、なおこの問いに答えることは容易ではない。
人生は生きるに値するか否か? これは生きていく過程で繰り返し自己に問い返し続けねばならぬ課題である。
生きる意味を失ったとき人は自殺する。自殺は人間の自由の証でもある。
「この世界は3次元よりなるかとか、精神には9つの範疇があるのか12の範疇があるのかなどという」ことを真剣に考えていられる間は、少なくとも人は自殺することはない。
われわれは、ここで共同体と社会を区別しておくことにしよう。社会的なものとは、共同体と共同体の「間」での交換(コミュニケーション)関係にかんしてのみいいうるのである。あるいは、共通の規則を本来的に前提しえないような場所での交換関係にかんしてのみ。逆に、そこから私のいう共同体(コミュニティ)が何であるかがはっきりするだろう。それは、村や地域共同体や組織や国家だけを意味するのではない。要するに、共同体とは、共同性であって、1つの言語ゲームが閉じる”領域”にほかならない。(柄谷行人「探求J」)
1998年01月25日(日)
メディア・リテラシーを身につけるとは、「社会的」に生きること、即ち複数の言語ゲームを徹底して批評的に渡り歩く技術を習得することである。
「金だけ出して、血も汗も流さない日本人」
このような恫喝に踊らされるとき、だがあらかじめ封印されている(誰によって?)恫喝の前提(欺瞞性)に気づかなくてはならない。
ジョージ・ブッシュとサダム・フセインとは、どちらがより「正義」(「普遍性」)を代理していると言えるのか?
ブッシュの率いる「多国籍」共同体とフセインの率いる「アラブ」共同体とは、単なる2つの並立的な共同体、等価の共同性に過ぎないのだ。アメリカは「世界」ではない。
多国籍軍はあくまで多・国籍・軍であって、国連・軍ではない。国連と世界とを等号で結ぶことには些かの躊躇があるが、国連は理念型として、一応、世界を表象している。それに対し多国籍軍はもちろん
Pax Americana の別名でしかない。
日本人の多くがあのとき(湾岸戦争は1990年から91年にかけて起きた)政治家やメディア(実は結果的に「アメリカ」――これにはもちろん日本も含まれる――の利益代表部)のプロパガンダに惑わされ、日本人は卑怯者だ! と地団駄を踏んだ。だが真の卑怯者は誰だったのか?
「悪の帝国」に大量殺戮の惨禍をもたらし、「正義の国」に湾岸戦争症候群やガルフ・ウォー・ベイビーズを生み出し、経済封鎖で現在までも多数の「民衆」を貧窮に陥れている(イラクばかりでなく、クーバ、その他の地域についてもまたしかり)のは、最終的に誰の利益のためだったのか? 日本人が加担した「正義」は、結果として、誰のための「正義」として機能した(機能している)のか?
☆
1月22日の日記で「国語辞典」という言葉を使った。国語という言葉は国家という概念を前提とした言葉である。国家、国民、国語、国旗、国歌、国土、国体、これらで1つの系列を形成する。
国語という言葉に対しては日本語という言葉を対置することができる。言語、文化、民族、この3語を仮に等号で結ぶとき、英語、トルコ語などとともに日本語はこの系列に連なる。
(中国語と韓国語、言語名に「国」という字が入るのはこの2言語だけである)
母国語と母語とは違う。母語は mother tongue の訳である。子がその成育の過程で「母」から自然に習得する言語の意味である。これに対し母国語はある人の属する国家(母国)の言語、即ち国語である。多民族国家に住む少数民族の多くは民族語としての母語(単数とは限らない)とともに、母国語(これも単数とは限らない)をもつ。
国語という言葉を使うとき、それが国家語の略であるということを意識しよう。
(さらに詳しくは田中克彦の一連の著作を参照)
1998年01月30日(金)
関西大学法学部教授・園田寿の「電脳世界の刑法学」では刑法入門からサイバーポルノやコンピュータ犯罪についての解説までさまざまな情報が詰まっている。姉妹ホームページ「air pocket」には「性の法的規制」に関する電子会議室も併設されている。
1998年01月31日(土)
今日は宮台真司の『まぼろしの郊外』(朝日新聞社)を読み終わった。
宮台は2つの終末観を対比する。女の子を中心とした「終わりなき日常」という終末観(たとえばブルセラ少女)と男の子を中心とした「核戦争後の共同性」という終末観(たとえばオウム真理教)だ。そして「終わりなき日常」をまったりと脱力して生きる少女たちによる「まったり革命」の最終的勝利を宣言(預言?)する。
だが僕には今の10代の女の子たちがストリートでまったりと生きているという実感がない。僕には、彼女たちは表層を現代風のモードで装ってはいるが、旧来の金太郎飴的共同性を見事に内面化している、と映るのだ。ルーズソックス(少し古いか?)で被われた彼女たちの脚にはまるで個性というものがない。
しかし僕は今ここで宮台を批判する気がまったくない。現時点でいくら宮台を批判しても、僕にはまるで得るものがないからだ。僕は現実の少女たちの姿には理想像を見出せないが、「まったり革命」が成就することだけは願っている。
☆
僕が金太郎飴のイメージを最初に掴んだのは、つげ義春の「ねじ式」であった。「ねじ式」の初出は「ガロ」(昭和43年6月)である。もちろん当時リアルタイムで読んだわけではない。いつ読んだのかは忘れてしまった。
「ねじ式」は、今、読み返してみても、非常に秀逸な作品である。
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