Naoka Memories 2008
合成の誤謬? あるいは 誰が彼女を殺したか
2008年6月10日(火)
2007年1月1日 |
2008年5月8日 | 2008年6月10日 |
彼女の生きてきた証を残したく、このページをつくります。 日付は6月10日となっていますが、以後も随時書き足していくかもしれませんし、削ったりもするかもしれません。 6月7日、午後1時30分、15年あまり連れ添った妻が他界しました。44歳でした。 6月9日に通夜式があり、10日に告別式でした。 5年ほど前に乳がんを患いましたが、手術もうまくいき、予後も順調で、「被爆者の子」に対する医療費助成も07年8月には打ち切られ、てっきりもう治ったと思ってたのですが、3月25日に急遽入院、2か月あまりの苦しい闘病生活の後、静かに息をひきとりました。転移性肝がんでした。 入院後、検査ばかりでまったく治療のない2週間ほどがむなしく過ぎた頃、主治医から呼び出され、もはや治療の施しようがない、あと1か月の命ということもあり得る、といきなり彼女のいない場所で告知され、その後、治療方法について彼女と腹を割って話し合うということができなくなりました。 病気の性質上、再発ということはあり得るにしても、定期的に検査を受けてて、いきなりそんなことがあり得るだろうか、と病院に対し僕は強い不信感を抱きましたが、彼女は最後まで主治医のことを信じてました(ストックホルム症候群のある種の変形ではないかと思ったりもしましたが)。 この間、僕は彼女にとりけっしてよい夫ではありませんでした。彼女を悲しませるようなことを繰り返ししてきました。 「誰が(僕が?)彼女を殺したのか」ということと同時に「合成の誤謬(一番弱いところに皺寄せが来る?)」ということを強く思います。 今回のことで僕が学んだことは、自分の気持ち(と僕が勝手に思い込んでいたもの)はあまりにもいい加減でまったく頼りにならない、ということです。 自分はこう思ってる、と自分で信じていたものが、こんなにも脆弱な基盤のうえに成り立っていたのか、ということを思い知らされました。 人を好きだとか嫌いだとか、あるいはその美醜の感じ方だとか、状況の関数で如何様にも変化しうるのですね(少なくとも僕の場合にはそのようです)。 2か月あまりの間に、彼女の肉体は客観的に見たらたぶん醜くなっていましたが、なぜか僕にはとても美しく、神々しくさえ、感じられました。 この間、彼女にもう少しやさしくしてあげてれば、別の展開もあり得たのではないか、少なくともあと1年か2年、長生きできてたのではないか、と悔やまれてなりません。 「長生きしたい」というのが知り合った頃からの彼女の口癖でしたから。 人の命は掛け替えがありません。 入院して2か月が経つ頃、彼女は自ら思い立ち、院内の美容院で髪を9mmまで刈り込み、男の子のようなスポーツ刈りにしてしまいました(これがなかなか似合ってましたが)。何週間かシャンプーできない日々がつづいてたので、いい加減、うんざりしてたのだと思います。 9mmよりはかなり長いですが、僕も今日、近所の床屋さんで似たような髪型にカットしてもらいました。 ずっと床屋さんに行く暇がなく、葬儀のときも髪が伸び放題でしたが、これでようやくさっぱりしました。 病院で最近いつも着ていた薄いモス・グリーンのとっくりとその上に重ね着してた僕のお気に入りでもあったグレーのフリースのジャケット(この頃、彼女は常に寒がってました)、腹水で大きく膨らんでしまった脚とお腹をようやく包み込んでた3Lのパジャマのズボンを穿いて、彼女がひらひらと空を揺れ昇っていく姿を繰り返し幻視します。 願わくば、天国で安らかに。 (僕は元々「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と考える人間だったのですけどね) 彼女の趣味は書くことと読むこと、そして織ることでした。 ↓は彼女の開いているサイトです。是非訪ねてみてください。 「天上の羊」は彼女の遺作となった童話です。 生前に公開の許可は得ていません。まだ未定稿なのかもしれません。 病気の再発のことはまだ知らなかった時期に書いたはずなのに、どこか暗示的でふしぎな気がしました。
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2002年10月12日 乳がん手術後、病院の中庭にて |
2003年12月4日 平壌にて |
2004年8月21日 ひかり祭りにて |
2005年3月15日 田縣神社 豊年祭にて |
Rooftop ムキンポの鼻☆スペリオール 2008年7月号 連載第48回 天国ってあるのかな。 |