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3月31日、TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」での浅香光代の発言から始まった一連のサッチー騒動も、東京地検が先月、ミッチーの告発状を受理したことで、どうやら一段落ついたようだ。このところTVのワイドショウでもあまり取り上げられなくなった。 生まれてからこの方、記憶している限りでは、僕がワイドショウをこのように注視して見つづけたのは、阪神大震災、オウム真理教事件、酒鬼薔薇聖斗事件、そして今回のサッチー騒動だけである。僕はもともと芸能ネタやスポーツ・ネタや皇室ネタにはあまり深い関心がない。芸能人やスポーツ選手や皇室の誰と誰とが結婚しようが離婚しようが不倫しようが死のうが生きようが赤ちゃんが産まれようが覚醒剤で逮捕されようがまったくどうでもいいことだ。 それでは、なぜ今回、僕はサッチー騒動にこのように魅せられたのか。 僕はもともと野村沙知代が嫌いだった。僕は野球に関して何一つ知らない人間である。だから僕がサッチーのことを知ったのは、ほんの数年前、彼女が頻繁にTVに出るようになってからのことだと思う。当時のことはよく憶えていないが、なんと図々しい女が出てきたものか、と不快に思った。1996年9月21日、衆院選への出馬を要請するため、当時の新進党・小沢一郎党首が自ら野村邸を訪ね、彼女に深々と頭を下げた。もともと小沢一郎が大嫌いだった僕は、その姿がTVのニューズで映し出されたのを見て、吐き気を覚えたのを記憶している。 |
ワイドショウが連日のようにサッチー問題を取り上げ、彼女へのバッシングを展開している様子を評して、これはメディアによる集団イジメである、と主張する人たちがいる。はたしてこれはイジメであろうか。僕はそうは思わない。彼女は戦後の混乱期をパンパンまでして図太く逞しく生き延びてきた女性である。その過程で多くの権力者や実力者に取り入り、食い込み、また多くの人びとを踏みつけにしてきた。そのような人間に対してイジメという表現は適切でない。いわば強力な怪獣にウルトラ警備隊が一生懸命に攻撃をしかけている構図である。しかも一話完結でなく、つづきもののドラマを見るような面白さがある。毎回毎回、多彩なゲスト怪獣を出演させ、視聴者を飽きさせない高度な演出が施されている。公職選挙法違反でたとえ有罪になったとしても、おそらくは罰金刑、重くて執行猶予つきの禁固刑といったところであろう。東京地検もウルトラマンにはなり得ない。はたして彼女は有罪になったとして、それを気にかけるようなタマだろうか? チクショー!程度には思うかもしれないが、それによって反省をしたり、生き方を改めるということにはならないだろう。 広辞苑によれば「弱いものを苦しめる」ことを「いじめる」という。彼女は「弱いもの」だろうか。いや、そうではないだろう。彼女はむしろ「強いもの」だ。「弱いもの」ならあれだけ叩かれれば、とっくの昔に自殺している。もちろん強い/弱いというのは相対概念だから、彼女より「強いもの」はいくらでもいるし、弱いからこそ自殺できないということもある。彼女がいくら鉄面皮でも、多くの政治家には叶わないだろうし、TV局と彼女とを較べてみれば、やはり彼女の方が断然に弱い。しかし彼女は苦しんだろうか? もちろんいくらかは苦しんだろうが、それ以上に楽しんだ面があったに違いない。まあ、僕は彼女がこれで自殺したって、別段、なんとも思わないのだが。 |
厚生省の「平成10年 人口動態統計月報年計(概数)の概況」によると、同年の死亡数は936.480人、うち自殺は31.734人であった。これは死因第6位に相当する。自殺の男女別内訳は、男性が22.338人で死因第6位、女性が9.396人で同第7位である。 さらにこれを性・年齢(5歳階級)別に表にまとめてみると次のようになる。
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昨日、上の表を作成していて思ったことは、人の死因に自殺の占める割合は、僕の想像していたよりも遙かに高いということだ(特に若い世代において)。真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。(カミュ)かつての文学青年やそうでなくても多少とも内省的なところのある人間ならば、1度や2度、自殺について思いを巡らしたことがあるはずだ。僕も青年期にはたびたびそのようなことを考えた。すでに若くはない今、充分に面の皮も厚くなり、そのようなことを考える機会はまったくというほどなくなったが、死に急ぐ人たちの気持ちもわからないではない。人間には生まれ出るのを拒否する自由はないけれど、いつだって死を選ぶ権利だけはあるはずだ。目の前でもし首を吊りそうな人がいたとしたなら、一応は思いとどまるよう説得すると思うが、それはあくまでも、一応は、であり、自殺する人も誰かに止めてもらいたいと願っているのではないか、と考えるからだ。それに人が死ぬのを目撃させられるのは甚だはた迷惑な話である。ただしこれはあくまで一般論としてであり、仮に身内にそのような人がいたとしたなら、もう少し親身になって止めているかもしれない。 メディア批判の一環として、このような一方的バッシングの渦中でもしサッチーが自殺したらどうするのだ、と難詰する人たちがいる。僕には彼女がこんなことで自殺するような繊細な神経の持ち主とはとうてい想像できないのだが、万一、彼女が自殺したとしても、たぶん何とも思わないだろう。あ、死んじゃった、というようなものではないだろうか。 それよりも、彼女のこのあくまで自己中心的なふてぶてしさ、逞しさ、図太さ、図々しさ、ここから何か学ぶものがあるのではないか。特に自殺予備軍の人たちにとって。 |
野村克也夫人として一部に知られてはいたものの、世間的にはほとんど無名だった沙知代さんが世に出るにあたって、三人の男がかかわっている。実をいうと、その中の一人がこの私である。本田靖春は、『現代』9月号の「私の同時代ノート」という連載のなかで、選考委員の1人として、サッチーに1985年の第4回「潮賞」ノンフィクション部門特別賞を与えたことに対して、「彼女が世に出るきっかけにつながっているとしたら、私は不明を恥じるばかりでなく、いささかなりとも責任を感じずにはいられない」と率直に自己批判の弁を述べている(「野村沙知代に賞を与えた不明を恥じる」)。他の2人の選考委員である筑紫哲也と柳田邦男、そして自ら野村邸を訪ね、三顧の礼を尽くしてサッチーを迎え入れた当時の新進党党首である小沢一郎のその後の態度と比較するとき、その姿勢は高く評価できる。(「小沢一郎自由党党首記者会見抄録」参照) 私はプロ野球に関心のない人間である。それは、偏見かも知れないが、日本のスポーツ界の底流を成す体育会系体質に対する生理的反発からきている。このあたりの感覚も僕と同じだ。根性とか集団規律とかまことに屁が出る。 昨日の夜のニューズで、東京地検はサッチーの起訴を見送る見通しとの報道があった。夏の終わりとともに、一連の怪獣騒動もこのまま終息に向かうのだろうか。だとしたら寂しい限りだ。願わくば、サッチーが衆議院議員に繰り上げ当選されますように。 |
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