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Also Sprach Mkimpo Kid
1997年10月22日(水)
先日、次のような内容のメールをもらった。それに対して少々自分の考えていることを述べてみたい。
いつも思いますが、WEBページ自体どのくらいの人が読んでくれてるのか、疑問です。それが文芸関係となると、さらに???なわけで。
しかもアクセス無料(読むのに金が要らない)で発信自由という気安さ、無責任さからか(これのメリットは大きいですが)全体のレベルが非常に低い。
それでますます読む人は少なくなる。
結局、作者の一方的な情報発信に過ぎず、まして芸術分野になると完璧なオナニーです。
上に書かれていることは事実関係としては基本的に正しいと思う。ただそれをどう評価するかという問題だろう。
僕はWeb上のコンテンツが玉石混淆(むしろゴミのような情報が多い)なのは決して否定されるべきことではないと思う。それだけ開かれた場所であるということの証だから。
もし本人に何かをどうしても発信したいという欲望があるなら、たとえ「完璧なオナニー」と言われても、発信したらいい。誰も強制的に見せられる(読ませられる)わけではないのだから。インターネット・ユーザーがネット・サーフィンを楽しむのは、完全にとはいかないが(たとえばプッシュ技術、あるいはもっと手前でも METAタグによるrefreshの存在)、かなりの程度、能動的な行為である。見たくなければ見なければいいのだ。
(もちろんここでも一般社会と同様、人権侵害や犯罪行為に関わる情報発信は論外である)。
コンテンツのレヴェルが低いと文句を言うのは顛倒した議論である(たとえば最近読んだ島田雅彦を中心とした鼎談集「電脳売文党宣言」の第二部〈島田雅彦×柳瀬尚紀×加藤弘一〉)。文句を言う前に自分たちが素晴らしいコンテンツをつくりあげ、自らWebサイトを開いて、情報を発信していけばいいのだ(確かに島田のサイトにはまったく内容がない)。
今の時代に求められているのは、溢れかえるゴミのような情報のなかから役に立つ情報を如何に素早く引き出すかという技術だろう。幸い
infoseek などのすぐれたトゥールもいろいろと用意されているのだから、そういった技術をどんどん磨いていけばいいのだ。
あるいは新しい時代の真の電脳編集者が求められているのかもしれない。
1997年10月23日(木)
「週刊新潮」の〈神戸「淳君」の父親が「人権屋」に突き付けたもの〉はまったくもってお笑いだ。
被害者側が、何で加害者ばかりが守られるのかと憤るのも当然である。
被害者の父親はさらにいう。
〈法律により犯人がその人権およびプライバシーを極めて手厚く保護されているのに対し、被害者およびその家族の人権やプライバシーは全く保護されていません〉
とも書いているが、父親のコメントは、まさに何をやっても罰せられることのない少年法の不条理を人権屋に突き付けたものだったのである。
が、被害者の思いは、人権屋には届かないらしい。
(実名の部分は「被害者の父親」と改変しました)
よくもこういうことを臆面もなく、いけしゃあしゃあと書けたものだ。被害者の顔写真や実名を何の断りもなしに(これは僕の憶測だが)、毎号毎号、誌面や電車の中吊り広告で商業主義丸出しに好き勝手に引用しながら、「被害者の思いは、人権屋には届かないらしい」とは、笑止である。
確かに朝日新聞を始め、良識派といわれるメディアにも被害者の人権やプライヴァシーへの配慮に欠けるところがあったことは事実である。しかし彼らは一応、形の上だけでも、いきすぎた面があったということを率直に認め、紙面等で表明している。
(僕のWeb上における発言にも、被害者感情に配慮しない点が多々あり、申し訳なく思っています)
「週刊新潮」は過去に1度でもそういった配慮を示したことがあったのか?
実際には被害者の「純粋で疑うことを知らない私達の子供」の写真を掲載することの是非については、個々の家族ごとにその気持ちを確かめてみなければわからない。なかには世界中の多くの人たちに「純粋で疑うことを知らない私達の子供」の写真を見てもらい、それを記憶にとどめてもらいたいと望む親たちもいるかもしれない。しかしそれはあくまでも憶測なのだ。「週刊新潮」は個々の被害者の家族ごとにその真意を確認する手続きをとったのか?
新潮社顧問の齋藤十一はかつて「週刊文春」7月31日号で次のように語っていた。
「確かに今の報道はみんな、さっき言ったように“売らんかな”だよ。
ただ、新潮社が今度やったように『法に抵触する』とかなんとか言われないようにやっているだけ。
俺は違う。
俺も“売らんかな”だよ。でも、天が決めた法、“天の法”に逆らってまで売ろうという気持ちはないんだ」
なぜ、反動の法皇・齋藤十一にだけ“天の法”が見えるというのか? これは傲慢以外の何ものでもない。
「週刊新潮」ははっきり言ってスキャンダル主義のイェロー・ジャーナリズムである。なぜそのことをはっきりと認めないのか? なぜ「民衆の声」などというきれいごとの言辞を並べ、自らの内実を隠そうとするのか? ただ少年の顔が見たいという(誰にもある/僕にもある)人間の下品な欲望を忠実になぞり、それを商売にしているだけではないのか? そのことを率直に認め、そのうえに立って、正々堂々と下品な雑誌の発行を続ければいい。
そのうえでもし必要なら「人権屋」たちと戦えばいいのだ。
1997年10月25日(土)
猪瀬直樹の「日本国の研究」(文藝春秋)を読んだ。
それによると、郵便の収集業務と輸送は、郵便局員の仕事ではなく、郵政省共済組合と財団法人郵政互助会が出資して設立した日本郵便逓送株式会社という「民間企業」の仕事だそうである。郵便事業を民営化すると、過疎地に郵便が届かなくなるという話は、あれは何だったんだ?
そのほかにもこの本はいろいろと面白い。
「うえのはるきのほめぱげ」
はじめまして!上野春樹です!このページは僕の日常の生活とライフワークを赤裸々に公開したページです。成功を目指す僕を皆さん応援して下さいね!僕は頑張るのですぅぅぅぅぅ
1997年10月27日(月)
愉快なことが2つあった。
1つは昨日の宮城県知事選での浅野史郎陣営の圧倒的勝利。
もう1つは朝日新聞に出ていた 〈え! 安田火災の「ひまわり」偽物?〉の報道である。
【ロンドン26日=時事】26日付の英日曜紙サンデー・タイムズは、安田火災海上保険が1987年に2475万ポンド(当時の為替レートで約58億円=手数料込み)で購入したゴッホの代表作「ひまわり」は偽物とする専門家の所見を報じた。
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