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Also Sprach Mkimpo Kid
1997年08月01日(金)
今日は「高橋源一郎なぺえじ」からリンクを辿って、「■■■■迷宮旅行社■■■■」を訪ねてみた。文学・哲学・旅行・時事問題等盛りだくさんの内容で、日記の終わりには必ず「僕は戦争に行きません。Junky。」とある。自己紹介らしきものがないので、どういう人なのかよくわからないが、「迷宮旅行者パスポート」を申請してみるのもいいかもね(迷宮旅行者之章 8/15 取得)。
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今晩のテレビ朝日の「異議あり!」は「『A君写真掲載批判』に異議あり!野崎研二」という内容らしいね。これから見なくちゃ。
1997年08月02日(土)
8月1日、永山則夫他4名の死刑執行が東京と札幌の拘置所で行われた。世論調査では死刑の存置論者が廃止論者を上まわっているという。僕はどちらかというと廃止論に近い立場だが、まだ最終的な結論は出していない。「死刑制度の廃止に向けて」というホームページを覗いた。僕も積極的に発言したいが、それにはまだ勉強不足だ。
死刑廃止論の1つの根拠は冤罪の可能性だ。それでは永山則夫のように冤罪の可能性のない場合はどうなのか? 少年法では18歳未満の死刑を禁じているという。永山則夫は犯行当時19歳だったから、この問題はクリアされている。しかし18歳未満に死刑を適用しないというのなら、18歳を超える者に対しても(もちろん成人に対しても)死刑を適用しないということ(たとえばそれに代わる無期懲役)は可能ではないのか? あまりに素朴な議論かもしれないが、今のところそんなふうに考えている。
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今日は「酒鬼薔薇聖斗事件を巡る一考察(1)」という文を書いた。
1997年08月04日(月)
昨日、「松江警察署・松江八束防犯連合会」の「異界に住む子供達」の「私の意見」コーナーに「酒鬼薔薇聖斗事件を巡る一考察」を投書した。松江警察署の生活安全係長より、「当サーバは、公共のものであり、なるべく個人攻撃や公共性から離れたものについては、ご意見を確認しております。あなたの記載された〈反動の法皇・齋藤十一率いる下衆の集団〉等の箇所については、当サイトにはいささか過激すぎるので、別の表現に変えていただきた」い旨のメールをもらった。「別段、掲載していただかなくても結構です」と返事を出したが、なぜか編集のうえ、「私の意見59」として掲載された。編集されたのは不本意だったが、文意は変えられていなかったので、これでさらに何人かの人に読んでもらえるのはありがたい、と思うこととし、特に文句は言わなかった。
1997年08月05日(火)
潮出版社発行「潮9月号」の特別企画〈「神戸小学生殺害事件」の深層〉を読んだ。なかでもトップに掲載された野田正彰〈「心の教育」で子供は救えない〉は秀逸である。文部大臣・小杉隆が中央教育審議会に「幼児期からの心の教育のあり方」について諮問したという報道があったが、何をバカなことを、と思っていた矢先、それについても的確に批判している。
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久しぶりに〈「キツネ目の男」宮崎学〉のホームページを覗いた。新作の〈「3000億円の男」親友和田誠一への攻撃に「キツネ目の男」宮崎学の大反撃宣言8/2〉を読んだ。
このオッサン、いつもユーモアたっぷりや。わしも少し見習わなあかん。8月12日に神田のパンセホールでやる宮崎学
vs. 高野孟のバトルトーク「びょーきの時代の直し方」、イッチョ、聴きに行ったろか。なんと参加費100円じゃと。
現在「週刊ポスト」で僕が連載している「マガジン」、主人公はマスコミの帝王・大宅壮一と、ノーベル賞作家・川端康成です。いま、あなたがサーフィンしているこのインターネットは世界中の人々に出会える「窓」です。インターネットの誕生はいろいろな人々の「情報発信」を活発にさせました。賛否両論ありますが、まだ未知数が秘められています。しかし、時をさかのぼること大正時代、大宅壮一と川端康成が少年時代に熱中したのはこのインターネットに似た、当時大流行の「投稿雑誌」へ自分の作品を投稿することでした。舞台は「マガジン」からはじまるのです。(猪瀬直樹)
期待させる書き出しである。しかし現在までにかなり連載が進んでしまっている。つづきはまた明日読もう。
1997年08月07日(木)
今日はTHE HAN WORLDというサイトを訪ねた。ここは現在、UCLAのvisiting scholarとしてアメリカに在住している金明秀(キム・ミョンス)という在日の青年が主催しているサイトだ。日本語・Korean・Englishのページがそれぞれある。もともと日本人と在日韓国・朝鮮人との交流を目的としたサイトだが、固い話題から柔らかい話題まで、硬軟織り交ぜたその内容は、コリア文化に今まで接したことのない日本人でも充分に楽しめる。特に電子会議室:HANBoardでの活発な議論のやりとりは、議論好きの人ならすぐに参加したくなること請け合いだ。
1997年08月08日(金)
「文藝春秋九月特別号」から「神戸小6惨殺事件」を読んだ。
吉岡忍の「徹底取材 酒鬼薔薇のルーツ」は比較的よくできたルポルタージュだ。結論はちょっとありきたりだが。
藤原新也の「バモイドオキ神の降臨」はすでに様ざまな場所で多くの人たちから言及されていることを、あたかも刑事「コロンボ」の新大陸「発見」のように「発見」して、1人悦に入っている。この人は写真だけ撮ってりゃいいのにね。
つまりかりにである、このようなことは誰も予想だにしないようだが、まだ容疑者にすぎない酒鬼薔薇少年が議論百出の渦中で、「ボクは自分の本名と顔写真を自らが進んで世間に発表したい」という選択を行った場合・・・・・(藤原新也)
こんなことは茶の間で煎餅囓りながら、TV見ている人だって考えつく。
村上龍の「寂しい国の殺人」は秀逸である。
何か強烈な事件を契機にして思考を停止する人はいつの時代にもいる。ヒステリックに排除と制裁を叫んでいる人々は、この十四歳が恐いのだと思う。この十四歳が露わにしてきたことが理解を超えていて、それが恐いのだろう。近代化の途上という「のどかで貧しい時代」を生きてきた人々の想像力には限界があるし、彼らは近代化の労苦を背負った人々でもあるので、わたしは「排除・制裁派」を批判しない。彼らはその労苦が報われなかったという挫折感によって「世間」と同化してしまった。この国の「世間」は原則よりも、ときには法律よりも強い。わたしはそういう「世間」とはできるだけ関わりを持ちたくない。(村上龍)
『わたしは「排除・制裁派」を批判しない』というころが僕とは違うけど、『そういう「世間」とはできるだけ関わりを持ちたくない』というところは僕と一緒だね。
1997年08月10日(日)
「新潮45 / 8月号」から酒鬼薔薇事件関連記事を中心に読んだ。柳美里の〈仮面の国4
「人権」に呪縛された「透明な家族」〉は一応の内容だが、あとは石堂淑朗を筆頭に、内容はもちろん、とにかく文章のレヴェルが低くて、まったく読むに堪えない。同じオヤジ雑誌でも「文藝春秋」の方が、遙かにレヴェルが上だ。
番組の中で出した、写真掲載是か非かのアンケートの回答が、49対49と真二つに割れたという原稿を読む時の小宮悦子の表情も見物であった。自分たちに不都合なニュースを報じるときの顔が妙に深刻に、同時に可愛くなるのはどういう訳か。大分前、女の交通事故率が男の一・五倍という数字を言う時の“悦ちゃん”の顔もエロティックで可愛かった。(石堂淑朗)
エロティックな〈“悦ちゃん”の顔〉と〈「フォーカス」の決断〉と一体どういう関係があるのか知らないが、何という下品なオッサン。僕は生憎とその番組を見てないが、49対49なら、「自分たちに不都合なニュース」とは到底思えないんだけど、要するに「一度名誉毀損で訴えられたくらいで、後はお手が後ろに回ることもなく何とか六十五歳の誕生日を迎えることが出来た(未だ危ないと言われるか)」と自称するこのオッサン、“悦ちゃん”がTV画面に出てくれば、「オチンチンから白い液体」を出すことくらいしか頭に思い浮かばないんだろう。
中学生になって見た、英豪占領軍の兵隊が日本の女を組み敷いている光景。二年目の夏、突然オチンチンから白い液体が噴出した時の快感と狼狽と。これらの記憶を今も鮮明に頭に焼きつけている力は、大人に少しずつ少しずつ近付いていっているという、喜ばしい上昇感覚そのものであった。(石堂淑朗)
これが「未だに鮮烈に保持している」「子供の頃の、一歩一歩大人に近付いて行く日々の記憶」だっていうんだから、笑っちゃうよね。村上龍の言う〈「のどかで貧しい時代」を生きてきた人々〉〈その労苦が報われなかったという挫折感によって「世間」と同化してしまった〉人々の典型だね。
「新潮45」ってまともな人間の読む雑誌じゃないね。
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