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Also Sprach Mkimpo Kid
1997年07月21日(月)
夜中にダイヤルアップネットワークの調子がおかしくなって、まったくインターネットに接続できなくなり、パニックに陥った。接続しようとすると、コンピュータがハングアップしてCtrl+Alt+Delキーを押さない限り、再起動できないのだ。数時間の試行錯誤の末、「パスワードの保存」のチェックをはずすと、接続できることがわかった。どうなってるの? いくつもプロヴァイダと契約して、「新しい接続」を増やしすぎたのがいけないのか、それとも昨日、悪口を書いた小田晋のたたりか?
☆
立花隆「同時代を撃つ」の「二人の子供を殺害した重大犯罪者の少年を“適法”に刑事処分に問うことはできる!(97/07/16)」を読んだ。この人、何としても新潮社と組んで「民衆の声」を代弁したいみたいだね。
文末近くに次のように文章がある。
このまま普通の少年事件と同じにバタバタ片づけて、2〜3年で少年を少年院から出すということになっても世論は怒りで沸騰するだろうし、かといって、少年を相当の無理をして刑事処分に付しても、世論の反発がかなりあるだろう。
しかし、どちらにしても、現行の少年法では、事件の客観的事実関係は全く明らかにならず、手続きの過程がどのように進行したのかも全く明らかにされないで終わる。
もし立花の言うとおり、「少年を相当の無理をして刑事処分に付し」たら(そんなこと本当に可能なのかね?)、なるほど「現行の少年法では、事件の客観的事実関係」や「手続きの過程がどのように進行したのか」は「全く明らかにされない」かもしれないが、刑事手続きのなかである程度「事件の客観的事実関係」は明らかになるんじゃないか? 「どちらにしても」とはどういう意味かね?
『世の大勢は、「フォーカス」を批判し、書店が販売を中止したことを支持しているようだ』と以前には書いていたけど、「2〜3年で少年を少年院から出す」と「世論は怒りで沸騰する」のに対し、「少年を相当の無理をして刑事処分に付しても、世論の反発がかなりある」程度で済むとは、「世の大勢」も大分変わってきたようだね。
「法技術上は、これも可能」などとあたかも法学者のような口ぶりで語っているが、ワイドショウに出ていた専門家と較べて、これは本当に信頼できる「学説」なのか?
僕が考えた酒鬼薔薇の「刑罰」は「少年院に20歳または23歳または26歳まで入院して、灰谷健次郎との往復書翰で小説家になる修行をすること」
1997年07月22日(火)
朝日新聞の「検証 児童殺害事件報道」が完結した。「日々の紙面づくりを論議する編集局部長会」での「こうした報道が続けばメディアへの信頼を失いかねない。厳しく自己点検する必要がある」との声で始まった「検証」は3日間にわたり第2社会面に連載された。
上 容疑者像 なぜかけ離れたか 証言裏付けにも限界
中 人権への配慮 貫き通したか 校名、年齢悩みつつ判断
下 地元への取材 節度守ったか マスコミ殺到し混乱
朝日新聞の3日間の「検証」の結論
「より深く、より正確な報道のためと思って取材に臨んでも、その思いが相手に伝わらず、ショックを受けることが多かった」。発生から50日以上、現場取材を続けた記者の1人の苦い思いだ。
1997年07月23日(水)
朝日新聞に「小説新潮」の広告と並んで「灰谷健次郎 まるごと一冊」の広告が載っていた。「灰谷健次郎の本フェア」も「書店にて開催中!」とある。灰谷と新潮社との話し合いはどうなってるんだ?
☆
Press Roomの新作〈寄らしむべし知らしむべからずの「新世紀エヴァンゲリオン」〉を読んだ。
僕も交通事故に遭う前に、あんまり世間で騒ぐので、映画を観る前に一応少し勉強しとこう、と思って、ヴィデオを3巻ほど借りて観たのだが、どこが面白いのかわからなかった。あまりの自意識のドラマにいらいらして、結局、3巻で投げ出した。これなら「るろうに剣心」の方が全然面白いぜ。
というわけで、「エヴァ」のことはほとんど知らない。
今回、Press Roomで批判的なコラムを読んで、ほっとした。でも「素直に、よくできたアニメだと感じていたことをつけ加えておこう、筆者もハマったクチなのだから」なんて書いてるから、僕とはちょっと感じ方が違うみたいだ。
「たまごっち」もよくわからない。あんなの、どこが面白いんだ? こんなのに夢中になってる奴らが大きくなると、1日中、パチンコとかしてるんじゃないか?
1997年07月24日(木)
「週刊文春」の〈御意見番・齋藤十一顧問 直撃インタビュー わが「新潮社」社員に告ぐ〉を読んだ。噂には聞いてたけど、これほど反動的なオッサンだとは知らなかった。正直、驚いた。「“天の法”には従わなくっちゃならない」なんて言ってるけど、なんでこのオッサンに“天の法”が見えるんだ? 一体、何様のつもり? 新潮社の恥だね。
1997年07月26日(土)
朝日ニュースターの再放送と録画したヴィデオで「朝まで生テレビ!」をようやく見た。相変わらず小田晋が興奮してたね。こいつは上野動物園の檻の中にでも入れといた方が世の中のためだ。
朝日新聞に次のようにある。
犯罪白書によると、1995年に検挙された少年の刑法犯は149.137人で、10年前に比べて10万人以上減った。また、少年法が施行された49年に殺人を犯した少年は344人、強盗は2.866人いたが、95年はそれぞれ80人、873人で4分の1程度になっている。(漢数字は算用数字に修正)
こういった事実を無視した議論は話にならないね。
1997年07月27日(日)
今日はようやく「さようなら、ギャングたち」で衝撃的なデビューを飾って以来、愛読している高橋源一郎の最新作「ゴーストバスターズ」(講談社)を読み終わって、「高橋源一郎なぺえじ」に感想を書きこんどいた。
☆
開かれた党・新進党のホームページには相変わらずメールの受付コーナーがない。ニコニコ閻魔くん、とっくに国民の声はお見通しってか。
国民の声は子犬のゆりこちゃんの掲示板で24時間受け付けてるぞ。
1997年07月28日(月)
小学館の「SAPIO」で久しぶりに小林よしのりの「新・ゴーマニズム宣言」を読んでたら、「竹田青嗣・橋爪大三郎氏らと12時間ぶっ通しで話した本が径書房からまもなく出る(7月22日発売)」とあったので、早速、買ってきて、最初の方を少しだけ読んだ。まだ印象にしか過ぎないが、なんか全然議論になってない。これじゃ、「新しい日本の歴史が始まる」(幻冬社)で「賛同者」として文を寄せた岸田秀と同様、竹田も橋爪も「新しい日本の歴史」教信者のお先棒担ぎにしかなってないぞ。
今日は友人が組み立てた新しいコンピュータが入ってきたので、それをカスタマイズしなくてはならない。感想は読後にまた改めて書くことにする。
1997年07月29日(火)
朝日新聞からのメールで気がついたんだけど、asahi.com の7月12日付け「インターネット上での情報について」の続篇が
asahi.com にやはり同じタイトルで載っている。この前は悪口を書いたけど、まあこれならいくらか説得力があるね。
1997年07月30日(水)
竹田青嗣×小林よしのり×橋爪大三郎の「ゴーマニズム思想講座 正義・戦争・国家論 自分と社会をつなぐ回路」(径書房)を読み終わった。
この本を読む限り、竹田の基本的な考え方は今でも支持できるし、橋爪の思想も留保つきながら評価できる。しかし小林や秘書「金森」たちの「新しい日本の歴史」教は唾棄すべきものである。
小林は藤岡信勝の本を読んで「急に異様に元気になっ」たという「オッサン」の話を得々として紹介しているが(その男の双子の娘の1人は自衛隊に入り、もう1人はマンガ家になるため小林の事務所に入ったという)、「自分と国家との関係の像が、その人にとって自己アイデンティティの大きな項目になって」いる人間というのを、僕はまったく信用しない。
人生はシーシュポスの神話を生きるように無意味なものではないのか、その不条理に堪えるのが、人生を誠実に生きるということではないのか、僕はそう考える。「新しい日本の歴史」教信者は現実から眼を背け、ロマン主義的幻想のなかへと逃避している。
もちろん僕にも幻想はある。しかしそれは、法の枠内にあるとはいえ、宮崎勤や酒鬼薔薇聖斗の幻想がそうであるように、あくまで私的なものである。僕はそれが公共性をもつとは思わないし、共同体の価値観のなかに回収されることも願わない。
竹田の「あとがき」にこうある。
こんどの鼎談は、あくまで小林よしのりが主役である、というのが、私の理解だ。
竹田と橋爪が小林とこのような基本姿勢で「闘論」し、それを上梓したことは、本人たちの意思がどうであれ、岸田秀が「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者名簿に名前を載せたのと同様、愚かな行為である。
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