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Also Sprach Mkimpo Kid 1997



酒鬼薔薇聖斗事件を巡る一考察(1)


 新潮社の「FOCUS」が酒鬼薔薇少年の写真を掲載した。ここから新たな動きが始まった。
 多くの書店で同誌は販売自粛され、新聞各紙・TV各局は新潮社を少年法違反と非難した。児童文学者は抗議のため、新潮社より彼の著作のすべての版権を引き揚げる、と宣言した。
 ネットワーク上では「表現の自由」を謳い、酒鬼薔薇少年の「FOCUS」写真の複製や彼の実名などが多くのWebページに掲載され、また転載された。そのなかには実に破廉恥なものも多かった。たまたま酒鬼薔薇少年と同じ地域に住み、彼と同じ姓をもつ者たちの住所や名前や電話番号が何の理由も開示されぬまま露出された。「天才!薔薇モン」と名づけられたポルノ紛いのコラージュ写真がつくられた。掲示板への「死ね!」「殺す!」などのヒステリックな書き込みが数多くなされた。何10kbもある悪意のメールが一方的に送りつけられた。「言論殺死の朝日新聞」の圧力により、一方的に削除されたという掲示板を巡り論拠の薄い非難中傷がなされた。それに続く滑稽としか言いようのない朝日新聞不買運動が開始された。「民衆の声」と称する少年法改正の大合唱が湧き起こった。
 これらの騒ぎは何だったのか? ここは「土人の国」なのか?
 酒鬼薔薇少年の写真を公開することの是非については議論の余地があるだろう。少年法の規定に関わらず、ここまでは僕も認める。
 しかしイェロー・ジャーナリズムの「FOCUS」にそもそもそのような資格があったのか? 日本ペンクラブの声明にもあるように「FOCUS」にはそんな準備は一切なかった。反動の法皇・齋藤十一率いる下衆の集団には、人々の下衆な欲望を喚起して、下衆な雑誌を売り込もうという下衆な意図しかなかったのである。
 齋藤十一は語っている。(「週刊文春」7月31日号)

 「確かに今の報道はみんな、さっき言ったように“売らんかな”だよ。ただ、新潮社が今度やったように『法に抵触する』とかなんとか言われないようにやっているだけ。
 俺は違う。
 俺も“売らんかな”だよ。でも、天が決めた法、“天の法”に逆らってまで売ろうという気持ちはないんだ」

 なぜ、齋藤十一にだけ“天の法”が見えるというのか? これは傲慢以外の何ものでもない。

「みんなプライバシー、プライバシーって飛び上がるけど、出されて困るようなプライバシーならば、しなければいいじゃないか」

 何を「しなければいい」というのか、前後の文脈からは「犯罪的行為」というように僕は読んだが、何という人権意識であろうか? 犯罪の被害者のプライヴァシーが尊重されなければならないのは当然だが(この点ですべてのマスメディアは非難されなければならない)、加害者とて保護されなければならないプライヴァシーはある。こんなこともわからない人間が、でかい面をして、新潮社の顧問に収まっているのだ。
 ネットワーク上で「表現の自由」とか「言論の自由」などという、どこで聞き覚えてきたか知らないが、口当たりのいい「紋切り型」を振りかざし、かといって「人権」などという都合の悪い言葉は聞いたこともないという横顔で、まともな言語能力もないくせに、「便所の落書き」を垂れ流す「汚い野菜共」は、「表現の自由」などという言葉が使えるのは日本では筒井康隆だけだ、ということを知らないのだろうか?
 8月1日、東京拘置所で「無知の涙」を執筆した永山則夫に死刑が執行された。
 「土人の国」に未来はあるか?

1997年8月2日(土) 


酒鬼薔薇聖斗事件を巡る一考察(2)


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声明

 神戸の小学生殺害事件における「フォーカス」の被疑者少年の顔写真掲載に関わる一連の問題についてさまざまに論議されております。日本ペンクラブでは、とくに問題をつぎの三点に絞り、マスメディア及び流通業者そして政府に自戒を求めたく、ここに声明を発します。
 被疑者少年の顔写真を掲載した「フォーカス」では、「残忍できわめて特異な今回の事件は、少年法で対処しきれるものか疑問を持たせる要素があった。顔を見ることが少年を理解する一助になると考えた」との趣旨で、編集長が見解を述べています。

 一、 報道の自由は何人も侵せない権利ですが同時に被疑者及び被害者の人権もまた侵せません。現行の少年法においては被疑者の写真掲載は禁じられています。法を侵しても、との強い信念があるのならば少年法改正についての用意周到な特集記事をもって臨むべきですが、写真中心のわずか四ページの「フォーカス」記事にはそこまでの深い配慮と覚悟は感じ取れません。
 メディアはスクープを追い求めています。部数増や視聴率アップにつながる短絡的な観点のみでスクープを追い求めるのでなく、国民の知る権利に奉仕する報道の自由のためであることを忘れてはなりません。スクープ、つまり独自取材を競い合うことがなければ当局発表(官公署等)による記事だけがメディアを満たすことになるでしょう。しかし、つねに越えてはならない一線があります。「フォーカス」批判の側に回った多くのメディアにしても被害者少年の実名と写真の公開について少しの疑問もないかのごとくでした。被害者少年の写真が掲載されつづけるなら被害者遺族の痛みはいっそう募るばかりで、またいっぽうで被疑者写真の掲載のどこがいけないのかという風潮も出てきます。「フォーカス」の勇み足をきっかけに、メディア全体がこの問題を反省し考えるつづける必要があります。

 二、 メディアが言論表現と報道の自由について、自らに厳しいプロフェッショナルとしての責務を果たすことを前提に考えれば、流通過程における「フォーカス」並びに「週刊新潮」の販売中止のプロセスも綿密に検討されてよいかと思われます。駅売店、コンビニエンスストア、書店が、取り扱う出版物を販売中止とする場合、それぞれに見解が求められます。「フォーカス」には、編集長という顔があり見解がありその主張の是非を吟味することが可能です。しかし、この間の流通過程の素早い動きには顔と主張が見えにくかったのも事実で、横並びになびくという強い印象、あるいは誤解を招いたことを危惧するものです。流通過程で個々人の判断がはたらいたでしょうが結果的に表に出にくいという実態がわかりました。顔が見えない、即ち判断のプロセスが公開・明示されにくい、あるいはそれらが十全に外へ伝わりにくい、となれば流通を担う部分が言論表現と報道の自由にとってはきわめて危険で不気味な存在に映ります。
 政治権力や圧力団体が介入した場合に、それも強制でなく柔らかな形で侵入してくるときには日本社会では一般に地滑り的な自粛と呼ばれる現象が起きやすく、したがって「フォーカス」事件への対応に限らず、自主判断と自粛の相違についてつねに明瞭な相違を示すよう期待するところです。

 三、 最後に、日本政府(法務省)は、「フォーカス」「週刊新潮」の回収を勧告しました。先進国においては政府が、出版物の回収を指示するなど、およそ想像もできないことです。メディアには政府と別の独立した使命があり、だからこそ強い規律が求められているのです。日本ペンクラブでは、今回の事件への政府の介入に強く抗議します。


一九九七年七月十五日 

社団法人 日本ペンクラブ  会長 梅原 猛 


猪瀬直樹氏のWebページより無断転載