酒鬼薔薇聖斗事件を巡る一考察(1) 新潮社の「FOCUS」が酒鬼薔薇少年の写真を掲載した。ここから新たな動きが始まった。 「確かに今の報道はみんな、さっき言ったように“売らんかな”だよ。ただ、新潮社が今度やったように『法に抵触する』とかなんとか言われないようにやっているだけ。 なぜ、齋藤十一にだけ“天の法”が見えるというのか? これは傲慢以外の何ものでもない。 「みんなプライバシー、プライバシーって飛び上がるけど、出されて困るようなプライバシーならば、しなければいいじゃないか」 何を「しなければいい」というのか、前後の文脈からは「犯罪的行為」というように僕は読んだが、何という人権意識であろうか? 犯罪の被害者のプライヴァシーが尊重されなければならないのは当然だが(この点ですべてのマスメディアは非難されなければならない)、加害者とて保護されなければならないプライヴァシーはある。こんなこともわからない人間が、でかい面をして、新潮社の顧問に収まっているのだ。 1997年8月2日(土) |
酒鬼薔薇聖斗事件を巡る一考察(2) |
声明
神戸の小学生殺害事件における「フォーカス」の被疑者少年の顔写真掲載に関わる一連の問題についてさまざまに論議されております。日本ペンクラブでは、とくに問題をつぎの三点に絞り、マスメディア及び流通業者そして政府に自戒を求めたく、ここに声明を発します。
被疑者少年の顔写真を掲載した「フォーカス」では、「残忍できわめて特異な今回の事件は、少年法で対処しきれるものか疑問を持たせる要素があった。顔を見ることが少年を理解する一助になると考えた」との趣旨で、編集長が見解を述べています。
一、 報道の自由は何人も侵せない権利ですが同時に被疑者及び被害者の人権もまた侵せません。現行の少年法においては被疑者の写真掲載は禁じられています。法を侵しても、との強い信念があるのならば少年法改正についての用意周到な特集記事をもって臨むべきですが、写真中心のわずか四ページの「フォーカス」記事にはそこまでの深い配慮と覚悟は感じ取れません。
メディアはスクープを追い求めています。部数増や視聴率アップにつながる短絡的な観点のみでスクープを追い求めるのでなく、国民の知る権利に奉仕する報道の自由のためであることを忘れてはなりません。スクープ、つまり独自取材を競い合うことがなければ当局発表(官公署等)による記事だけがメディアを満たすことになるでしょう。しかし、つねに越えてはならない一線があります。「フォーカス」批判の側に回った多くのメディアにしても被害者少年の実名と写真の公開について少しの疑問もないかのごとくでした。被害者少年の写真が掲載されつづけるなら被害者遺族の痛みはいっそう募るばかりで、またいっぽうで被疑者写真の掲載のどこがいけないのかという風潮も出てきます。「フォーカス」の勇み足をきっかけに、メディア全体がこの問題を反省し考えるつづける必要があります。
二、 メディアが言論表現と報道の自由について、自らに厳しいプロフェッショナルとしての責務を果たすことを前提に考えれば、流通過程における「フォーカス」並びに「週刊新潮」の販売中止のプロセスも綿密に検討されてよいかと思われます。駅売店、コンビニエンスストア、書店が、取り扱う出版物を販売中止とする場合、それぞれに見解が求められます。「フォーカス」には、編集長という顔があり見解がありその主張の是非を吟味することが可能です。しかし、この間の流通過程の素早い動きには顔と主張が見えにくかったのも事実で、横並びになびくという強い印象、あるいは誤解を招いたことを危惧するものです。流通過程で個々人の判断がはたらいたでしょうが結果的に表に出にくいという実態がわかりました。顔が見えない、即ち判断のプロセスが公開・明示されにくい、あるいはそれらが十全に外へ伝わりにくい、となれば流通を担う部分が言論表現と報道の自由にとってはきわめて危険で不気味な存在に映ります。
政治権力や圧力団体が介入した場合に、それも強制でなく柔らかな形で侵入してくるときには日本社会では一般に地滑り的な自粛と呼ばれる現象が起きやすく、したがって「フォーカス」事件への対応に限らず、自主判断と自粛の相違についてつねに明瞭な相違を示すよう期待するところです。
三、 最後に、日本政府(法務省)は、「フォーカス」「週刊新潮」の回収を勧告しました。先進国においては政府が、出版物の回収を指示するなど、およそ想像もできないことです。メディアには政府と別の独立した使命があり、だからこそ強い規律が求められているのです。日本ペンクラブでは、今回の事件への政府の介入に強く抗議します。
一九九七年七月十五日
社団法人 日本ペンクラブ 会長 梅原 猛