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「サッチーとしまえん」が「メンズウォーカー増刊 WebWalker」の「年末年始完全対応 BESTサイト300」に取りあげられました。「1999 お騒がせサイトベストセレクション」に梨元勝の「恐縮です」と並んで出ています(p.117)。本屋さんで立ち読みしてね。 |
明日は三河島駅前のだるま屋でわんわん鍋を囲む会だ。 また考えが変わるかもしれないけど、来年のAlso Sprach Mkimpo Kidのマニフェストはとりあえずこれで行こうかな。 |
看板を見たら、だるま屋じゃなくてだるまやというみたい。今日はあいにく定休日でわんわん鍋は食べられませんでした。以下省略。 |
今日はヨドバシカメラでディジタル・カメラ(OLYMPUS CAMEDIA C-201)を買ったので、そのうち画像を取り入れたページもつくるつもり。とりあえずはカメちゃんの写真でも撮ろうかな。でもまだ使い方がよくわからない。 |
「ムキンポ小僧の掲示板」に新たにtree表示方式の「犬鍋食堂談話室」を加えた。欠点はあるコメントにレスをつけても、そのコメントが自動的にtreeの上位に移動しないこと。 |
「いますぐリンク」(旧)がいつの間にか廃止になってたので、改めて新しい方に「ムキンポ小僧 のいますぐリンク」を登録し直した。「FREE-LINX」もいつの間にか削除されてた。いくらタダとはいえ、一応、メールとかで連絡くれりゃあいいのにね。 |
何日か前、あるオッサンと電話で渡辺淳一の『失楽園』('97)と浅田彰の『構造と力』('83)とはどちらが世の中に大きな影響を与えたかという話をした。僕は迷わず『構造と力』と言ったのだが、オッサンは『失楽園』と言った。確かに『失楽園』は小説が300万部以上売れ大ベストセラー、映画・TVドラマも大ヒットした。『構造と力』は売れたとはいえ、せいぜいが10万部か20万部といったところだろう。直接的な経済的効果の差は歴然としている。 『失楽園』については高橋源一郎が「週刊朝日別冊 小説TRIPPER 1997秋季号」に「文学探偵タカハシさん、『失楽園』殺人事件の謎を解く」という実にバカバカしいエッセイを書いている(『文学なんかこわくない』所収)。 『失楽園』はまともな言語感覚の持ち主にはとうてい読むことのできない文章である。僕はもちろん読んでない。『失楽園』の読者層の中心はふだん小説など読むことのないオジサン・オバサンたちであろう。そうでなければこのように無神経な駄文を数ページ以上にわたって平気で読みつづけられるはずがない。 『怖いわ・・・・・・』『構造と力』は僕が大学7年生の頃に発表されて、当時のスノッブな若者たちの間に一大センセーションを惹き起こした。ポストモダン、スキゾ・パラノなどの流行語を生み、浅田はニュー・アカデミズムの旗手と言われた。たぶんにファッション化していたとはいえ、それでも何万人かは最後まで読みとおし何ごとかの理解を得たはずである。 はじめにEXCESがあった。 |
「つづく」の言葉で前回(18日)の日記を終えてから(「つづく」の言葉はすでに消した)、1週間近く経ってしまった。ふだん時間的に余裕のある僕もこのところさすがに忙しくて日記を書く気分でなかった。今日は天皇誕生日で休みなので(去年同様、一般参賀に行こうかとも思ったが、結局、めんどくさくなって行かなかった)、少しだけつづきを書いてみたい。 上で「あるオッサン」と書いたのは実はフリチン先生のことである。フリチン先生については、掲示板ですでにお馴染みだから、ここに紹介は書かない。 『失楽園』と『構造と力』とどちらが世の中に大きな影響を与えたか、という問題はもちろん一概に語り得ない。「世の中」という言葉(あるいは「社会」とか「文化」とか「人びと」とかいう言葉でもいいのだが)で表現されることの内実はそれを語る人の視点によって微妙に(あるいは大きく)ずれている。 ふだんエリート主義的なことを語っているはずのフリチン先生は、『失楽園』は大衆に受け入れられた、歴史を動かすのは常に大衆である、というようなことを言っていた。僕は、浅田彰の読者層の知的レヴェルはかなり高い、いわゆる文化人・知識人も多く含まれている、彼らはオピニオン・リーダーとして社会に影響力を行使するだろう、と言った。 そのときの電話でのやりとりではなんだか僕の方が形勢不利だったのだが(昔から僕の方が常にボケでフリチン先生にあれこれ突っ込まれる)、後になって考えてみてもどちらの考えが正しいのかよくわからない。 今、ちょっと思っていることは、影響力の大小を中立的に語ることは困難である(あるいは不可能である)ということである。影響力の大小の捉え方は常に語り手の歴史観とか価値観、少なくとも視点といったものと深く相関している。たとえば大雑把に言えば、語り手は古代から中世、中世から近代、近代から現代へと歴史が発展していくというようなイメージをあらかじめもっていて、往々にして、彼にとってのある望ましい未来像との関わりのなかで影響力の大小を語るのではないか。僕が『構造と力』の方が『失楽園』より「世の中に大きな影響を与えた」と語ったとき、そこには『失楽園』的なものへの唾棄があらかじめ組み込まれていた。フリチン先生も(『構造と力』についてどう思っているかは知らないが)『失楽園』についてはかなりネガティヴなイメージをもっているはずなので、その点で僕よりも価値中立的に語っていたといえるかもしれない。 結局、『失楽園』と『構造と力』のどちらが世の中に大きな影響を与えたか、という問いに僕はまだしっかりと答えらないでいる。しかし30年後に『失楽園』を憶えている人はあまりいないのではないか、なぜならその頃、同書の読者層の中心は著者もろともすでに死に絶えているから、ということは言えると思う。また『失楽園』の影響という言葉から連想されるイメージが僕にはどうも具体的に浮かばないのだ。『失楽園』に影響を受けて人びとはいったいどのように行動するのか? そしてそれは社会の変化とどう関連づけられるのか? これが『ゴーマニズム宣言』と『構造と力』との比較なら、もっと具体的に考えられるのだが。 |
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