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高島俊男みたいに「お言葉ですが・・・」などと言いながら、有職故実や故事来歴や訓詁学や系譜学なんかを持ちだして、この言葉づかいは正しい、これは誤用だ、なんて言って威張ってるのは単なる阿呆だ。言葉にはセンスのある言い回しと野暮天な言い回しとがあるだけであって、近頃の日本語は乱れている、なんて言って嘆いているのは、そいつが保守の中年オヤジになった証左だ。言葉は変化するから楽しいのであって、固定化してしまっては、新しい言語芸術はもはや生まれてこない。つま【妻・夫】現代日本語の日常語で「つま」を「夫婦の一方としての男」の意味で使っていたとしたら、そいつはちょっと言語感覚がおかしいだろう。言葉は基本的に共時的に解釈すべきなのである。 |
「神さがし」は「私さがし」に由来する。所属する共同世界に何のアタッチメントも感じ得ず、全き個として切り離された(ディタッチされた)自我は、私が私である根拠の不在感に苛まれざるを得ない。「私は誰か」「私がここにいるのは何故か」という絶えざる問い返しのすえに、「私」はその実存を根拠づける「神」を性急に対象化してしまう。(p.165) |
今日は新しいゲストブックをつくった。 ☆ |
人は何のために生まれてきたか? これは、人類は(生物は、と言い換えてもいいだろう)何のために生まれてきたか、という問いと、この「私」は何のために生まれてきたか、という問いとに分解できる。しかしそんなことはいくら考えたって答えは出ない。数十億年前に地球上に生物が誕生し、数十万年前にアフリカの大地に人類が現れ、そして数十年前に日本と呼ばれる国の片隅に「私」が生まれた。それは単なる事実(自分の生誕でさえ、直接、確かめたわけではないので、未だ、仮説、と呼んだ方がいいかもしれないが)認識であり、そこには目的論や価値判断は含まれていない。「私」はある日、母の胎内より、この地上に生まれ落ちた。そして死なない限り生きている(多分)。「私」の実存でさえ事後的に発見された(発明された?)表象に過ぎないのだ。 |
「私は誰か」「私がここにいるのは何故か」などと問うてみても所詮、解答は得られまい。毎日が楽しければそれでいいではないか? 人生の楽しみ方は各自が自分で見つけるしかない。死んだらすべては終わりだ。死ぬつもりになれば、思いがけない冒険だってできるはずだ。だが新興宗教や自己啓発セミナーやネットワーク・ビジネスやハタ坊くん幻想にだけはまるのをよそう。そんなことに夢中になるくらいだったら、アイドルの追っかけでもしていた方がましだ。 |
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