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Also Sprach Mkimpo Kid

1997年09月02日(火)

 僕が確認した限りでは the official Web site of the British Monarchy でもそうだし、一般に英語では Diana または the Princess Diana の呼称を用いているようだ。フランスの Le Monde では la princesse Diana と Lady Diana の両方が用いられていた。日本の新聞・TVではどうかというと、一般に最初に引用するときだけは「ダイアナ元英皇太子妃」だが、あとは「ダイアナさん」でとおしている。
 これにはだいぶ違和感がある。まあ、僕は反君主制の立場だから、「妃」の称号にはこだわらないんだが、かといって「さん」づけはいただけない。もしかしたら Le Monde の Lady Diana は日本語の「ダイアナさん」に近い感覚なのかもしれないけれど、僕はフランス語が得意でないので、そこら辺のニュアンスはよくわからない。
 僕がここで言いたいのは「ダイアナ」のことではない。「〜さん」のことである。新聞ではさすがに少ないが、TVでは政治家に対し「〜さん」のオン・パレードである。「橋本さん」「小沢さん」「菅さん」「土井さん」しまいにはそれを聞いていた一般市民までもが、勘違いして、総理大臣のことを「橋本さん」なんて呼び始める始末である。「橋本」と呼び捨てにするか、それが失礼と思うなら「橋本総理」「橋本首相」または「橋本氏」だろう。そこら辺の八百屋のオッサンが「橋本さん」なんて言っているのを聞くと、橋本ってお前の友だちか、といつも思う。
 森田良行「基礎日本語辞典」(角川書店)を見ても、「〜さん」の説明のなかに次のような記述がある。

 故人や政治家、文学者、芸能人、スポーツ選手などには普通「さん」を付けない。

 少し角度の違う話だが、朝日新聞の今日の朝刊に次のような記述があった。

 「ダイアナさんの車を運転していたアンリ・ポールさん」
 「ポールさんは、ドディ・アルファイド氏の父親が所有する高級ホテル、リッツの警備担当幹部」

 ここにはダイアナ妃に対する「さん」づけとは明らかに違うニュアンスがある。これは一種の差別である。同一の記事のなかで金持ちのアルファイド氏に対しては「氏」を用い、使用人のアンリ・ポール氏に対しては「さん」を使っている。一見親しみを込めた表現に見えるが、死者であるアンリ・ポール氏に対する尊敬の念がまったく見受けられない(なぜか夕刊では全面的に「アンリ・ポール氏」に改まっている)。
 一般に新聞記事のなかで、たとえば交通事故等で一般市民の名前が紙面に登場するとき、大抵「〜さん」が用いられている。また文学賞の入賞者が女性の場合にも男性の場合よりも多く「〜さん」が用いられているような気がする。
 平等を言うなら、無名の市民を個人として扱う場合、「〜さん」はやめてすべて「〜氏」に統一すべきである。(もっと言えば、年少者に対して「〜ちゃん」や「〜くん」を使うのも、相手が2歳や3歳の幼児なら別だが、少なくとも中学生以上の者に対しては抵抗がある)
 また政治家等を報道で取りあげる場合、対面して語りかける場合以外、「〜さん」はやめて「〜氏」を使うか、すべてその肩書きを付して呼ぶべきである。


1997年09月03日(水)

 昨日の日記で、朝日新聞の朝刊にあった「ダイアナさんの車を運転していたアンリ・ポールさん」という表記が、なぜか夕刊では全面的に「アンリ・ポール氏」に改まっている、と書いたが、それはなぜだろうと考えてみると、実は昨晩は眠くなって、夕刊をちゃんと読まずに、適当に書いていたのだが、今朝、改めてその記事に眼をとおしてみると、事故の原因として運転手の飲酒が次第にクローズ・アップされてきたのにともない、今後の展開に備えて、より客観的な響きのある「〜氏」に改めたのではないか、ということに気がついた。だからこれは根本的な意味での態度変更ではない。因みに今日の朝刊ではただ「運転手」とだけ表記されている。
 朝、TVをつけていたら、ワイドショウでロンドンの梨元勝が「ダイアナさん」と言わずにいつも「ダイアナ妃」と呼んでいるのに気がついた。ただしこれは100%確認したわけではない。
 「速報ダイアナ交通事故で死亡」というサイトが開かれ、掲示板も用意されている。


1997年09月06日(土)

 ダイアナ妃に続き、マザー・テレサの死去が報道された。各報道機関におけるマザー・テレサの呼称を比較してみる。

 朝日新聞

*マザー・テレサが暮らしていたカルカッタからの報道
*マザーの訃報を聞いたスラム街の住民ら数100人

 毎日新聞

*ローマ・カトリック教会の尼僧、マザー・テレサさんが死去した
*マザー・テレサは、本名アグネス・ゴンジャ・ボジャ
ジュ

 讀賣新聞

*マザー・テレサ(本名アグネス・ゴンジャ・ボワジュ)が
*テレサさんは、五十年近くにわたってカルカッタのスラム街を拠点に

 産経新聞

*マザー・テレサ(本名・アグネス・ゴンジャ・ボジャジュさん)が
*マザーは三度来日している
*東京都台東区の山谷地区を訪れたテレサは

 共同通信社

*「スラムの聖女」と呼ばれたカトリック修道女マザー・テレサ(本名・アグネス・ゴンジャ・ボジャジュさん)

 CNN

*Mother Teresa was born Agnes Gonxha Bojaxhiu to Albanian parents

 Bojaxhiu をどう読むかという問題は別として、今のところ呼び方は各社まちまちである。新聞の場合、一応、「マザー」を肩書きか称号のように解釈して、「さん」などの敬称はつけない方向が優勢のようだ。TVの方はまだ確認していない。これはダイアナ妃の場合と比較してみると、対照的である。
 もしプリンセス・ダイアナを「ダイアナさん」と呼ぶのなら、マザー・テレサは当然、「テレサさん」じゃないのか。どうも言語感覚が狂っているとしか思えない。


1997年09月07日(日)

 今日の「讀賣新聞」の朝刊によれば、ダイアナ妃の「葬儀に先立つ葬送行進では、100万人余(警察発表)が、5.6キロの沿道を埋め」たそうである。昨日の同紙の夕刊に弔問者の数は「合計500万人は下回らないと予想されている」と書かれていたことから考えれば、随分と規模が小さかったわけだが、イギリスの人口が5.800万人ということから考えれば、やはりかなり大規模だったと言えるだろう。
 ついでに言えば、「葬儀の模様は、世界各地に同時中継され、『25億人』(BBC放送推計)が見守った」という同紙の記事(9/7)も上記のことから考えてあまり根拠のある数字とは思えない。
 それでは1989年2月24日に新宿御苑でとりおこなわれた昭和天皇の大喪の礼のときはどうだったんだろうと、手元の資料を当たってみたが、残念ながら当時の数字は掴めなかった。
 僕が天皇制を初めて意識したのは、1988年から89年にかけての自粛ムードのときである。それまで自分の生活とは何の関係もないと漠然と考えていたのだが、どうやらそれではすまないらしいということを初めて知った。それ以来、僕は反天皇制である。
 もっとも今の天皇・皇后・皇太子を含む皇族方にはダイアナ妃同様によい印象をもっている。特に今の天皇は車中などからにこやかに人びとに手を振っている様子をTVで見ると、人がよさそうで好感がもてる。
 僕は何かというとすぐに歴史だとか伝統だとかということをもちだして説教を垂れ始める手合いが嫌いだが、今の天皇家に期待するとすれば、外交官あるいは文化使節として各国との国際交流に積極的に貢献するか(その場合、宮内庁は外務省の下部機関にでもなるべきである)、京都に戻って私人として(あるいは天皇教の神官としてでもいいが)ひっそりと(あるいはダイアナ妃のように派手でも構わない)自由に気ままに暮らすことである。

               ☆

 今日、気がついたのだが、「日本経済新聞」では(残念ながらいくつか例外はあるのだが)、基本的に「ダイアナ元英皇太子妃」または「ダイアナ元妃」の呼称を用いているようだ。


1997年09月08日(月)

 今日は「インターネット会議室」に設けられている「政治会議室」というところを訪ねて遊んだ。「インターネット会議室シリーズ」には他にも「自衛隊会議室」「司法、警察会議室」「土木建築会議室」「TV会議室」の各会議室があって、さらにその内部が細かくいろいろ分かれている。

               ☆

 東京大学文学研究会のサイト内に用意された「ダイアナ系」伝言板というのを見つけて行ってみた。ここにはダイアナに対する賛否両論、毀誉褒貶、かなり過激なことも書いてある。(9/11閉鎖)


1997年09月10日(水)

 朝日新聞第3社会面の下3分の1強を使って「CENTRAL BANK OF NIGERIA 前渡し金詐欺に再度警告します」という広告というのか公告というのかが載っていた。なんか下手くそな日本語でちょっと理解しにくいんだけど、この事件は何年か前のテレビ朝日の「サンデー・プロジェクト」でも確か取りあげられていた。未だにこの事件、続いていたのかね? 
 それにしても世の中には詐欺に騙される人って多いよね。インターネットでも未だによく来るのが MULTI LEVEL MARKETING。こんなので金が儲かるわけないんだけどね。まあ、本人たちは遊びのつもりでやってるのかもしれないけどさ。
 和牛商法とかKKCとかオレンジ共済組合とかM資金とか豊田商事とか、もちろん騙す奴が悪いんだけど、騙される方もバカとしか言いようがないね。

               ☆

 7月6日の日記にも書いたが、金融ビッグ・バンの流れのなかで保険の自由化が進んでいる。アメリカンホーム保険は年齢や住んでいる地域など危険度に応じて保険料に差をつけた「リスク細分型」自動車保険を今月から通信販売で売り出した。同社日本代表横山隆美によると、「大まかにいうと、現行水準より3割程度高くなる人と安くなる人が出る」そうだ。
 自動車保険にはもともと大ざっぱに言って「年齢を問わず担保」「21歳未満不担保」「26歳未満不担保」の3種類があった。「年齢を問わず担保」と「26歳未満不担保」とでは約2倍の保険料の差がある。だから「26歳未満不担保」を契約する人も多い。しかしその場合、たとえ自分が30歳でも、25歳の者にクルマを貸して、万一事故でも起こされたら、保険金は1円も出ないということを理解しているのだろうか? 
 保険というのは本来、「一人は万人のために、万人は一人のために」という理念に支えられて発展してきたものである。金融・証券・保険の自由化はそれ自体、今後の日本経済生き残りのためには必要なことなのかもしれない。しかしそれならばその前に、ドライヴァ保険をもっと普及させるとか、自賠責保険をさらに充実させるとか(最近の報道によると、被害者が死亡した場合、被害者の過失割合を100にして、自賠責でも保険金が一切出ない場合があるという)、無保険車による交通事故被害者が出ないための工夫をもっと積極的に考えるべきではないのか?


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