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Also Sprach Mkimpo Kid

1998年03月21日(土)

 「FOCUS」誌による「少年A卒業式当日にストリップ見物の校長」スクープは快挙であった。岩田信義校長が偉大なのか、それとも PHOTO 渡辺靖由の手柄か、そんなことはどっちでもいい。とにかくこれで些かなりとも「心の教育」の正体がさらに暴露されることになったのだ。
 今日の朝日新聞の〈声〉欄に「校長の行為は 心の教育欠く」との茨城県 鈴木** (大学教授 68歳)の投書が載っていた。残念なことに未だに「心の教育」の有効性・有用性を信じている人もいるのである。
 その投書によると、同中学校の教頭は、この校長の行為についてのコメントを求められ、「どうということはないんじゃないでしょうか」と述べたという。大学教授はこれについて「これも同様に心の教育を教える教師としては、失格者である」と書いている。しかし僕に言わせれば、この校長にしてこの教頭あり、二人三脚でまことに頼もしい限りである。

 中学生を中心にナイフを使った事件が多発していることを受け、東京都の青島幸男知事は25日午前、渋谷区の代々木中学校を訪問し、1、2年生を対象に「ナイフを人に向けてはいけない」と約15分間スピーチをするそうである。ナイフの所持・使用を巡っては町村信孝文相が3月10日に「緊急アピール」を出している。青島知事は「文相の発言の内容は存じていない。自分の言葉で語るつもりだ」と話したそうだ。

文部大臣緊急アピール
【子どもたちへ】
【保護者、学校関係者、そして全ての大人たちへ】
平成10年3月10日
文部大臣 町 村 信 孝


1998年03月22日(日)

 Press Room「少年事件続発の背景に2つのアナウンス効果」を読んでみよう。

 1月ほど前に入院した従兄がようやく先週の金曜日に退院してきた。しかしまだ職場に完全復帰は難しそうだ。当分、以前のような自由気ままな暮らしはできそうにない。たまの連休もこんなときには嬉しいね。
 今日は昼間、久しぶりに少しだけ小説を読んだ。三浦俊彦の『エクリチュール元年』(海越出版社)から「実習校」と表題作の3分の1ほどを読んだ。筒井康隆の『文学部唯野教授』とか石黒達昌の『平成3年5月2日, 後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士, 並びに, 』とかマルカム・ブラドベリの『超哲学者マンソンジュ氏』とかギルバート・アデアの『作者の死』とかが好きな人にはお薦めだね。
 夜は金曜日にオープンしたという「新宿サザンテラス」に行って、イタリア料理を食べた。
 そういえば1年前の今日は交通事故に遭って病院に担ぎ込まれた日だった。うひゃひゃ。


1998年03月23日(月)

 昨日、読み残した三浦俊彦の「エクリチュール元年」を読み終わった。しかし当初の期待水準からするとイマイチだった。前半部分は凄くいいんだけど、後半部分は羽目をはずしすぎで、面白くなくなった。残りの「朧朧一九九五」はまた明日にでも読むつもり。


1998年03月24日(火)

 今日は1か月ぶりに紀伊國屋書店に行った。今日の収穫は下記のとおり。うっひゃー。いったいいつになったら読み終わるんだろう?

# 尾木直樹・宮台真司『学校を救済せよ』(学陽書房)
# カレル・ヴァン・ウォルフレン『なぜ日本人は日本を愛せないのか』(毎日新聞社)
# 永井均『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房)
# 中丸薫『明治天皇の孫が語る闇の世界とユダヤ』(文芸社)
# 柴谷篤弘『比較サベツ論』(明石書店)
# 呉智英『危険な思想家』(メディアワークス)
『岩波哲学・思想事典』(岩波書店)

 Natori Hiroshi home page というのを見つけた。ここには「勝手に永井均氏関連ページ」というのと「宮台氏が努力家でもあることに君は気づいているか?」というページがある。永井均はまだ1冊も読んだことないんだけど、本当に面白いんだろうか? 最近、あちこちで名前を見かけるので、とりあえず1冊買ってみた。
 中丸薫の『明治天皇の孫が語る闇の世界とユダヤ』を第2章まで読んた。うっひゃー。こりゃ大笑い。


1998年03月25日(水)

 小学館の「SAPIO 4月8日号」が実にバカげた特集を組んでいる。

SIMULATION REPORT
日本国大改造試案!
20〜40歳の全男女が通算で24か月間・・・
「国民皆ボランティア」制度を提起する
1. すべての日本人男女は、満20歳から40歳までの20年間のうち、総計で2年間(24か月)、国家および国民に対してボランティア活動をすることを義務とする。
1. ボランティア期間は分散させることができる。その場合は、最短単位を3か月間とし、会社および就業状況との関係を考慮して時期を選択することができる。
1. ボランティア中は集団生活をすることとし、その間の賃金はそれぞれの雇用主が負担する。
1. やむを得ない理由により参加できない者は、毎月の収入より月額5万円の免除費を2年間支払うこととする。
1. 特例として、10歳未満の子どもを持つ母親は免除される。
1. 常時、年間約100万人がボランティアに従事する。その内訳は、医療・老人介護関係50万人、ゴミ処理を含む環境関係34万人、植林など山林・治水確保5万人、海上保安1万人、防衛10万人とする。配属については本人の希望を尊重する。
1. その他詳細については、国民による議論をもって決定する。

 今日はあとで時間があれば、この問題について意見を書きたい。


 分量があるので、全部は読めなかった。「新・ゴーマニズム宣言」といい、今回のうすのろ・まぬけ特集といい、「SAPIO」って「新潮45」とか「諸君!」とかの仲間か? あまり雑誌を読まないので、よく知らないんだが。
 誰でも真っ先に思い浮かべることだろうが volunteer 活動を義務化する、というのがまず端的に語義矛盾だ。自ら志願して行動するから volunteer で、制度的に徴用されたら conscript じゃないか。そんなことで「日本という国のために、いま私たちができることは何なのか」なんていうありがたい精神が広く「国民」の間に育つのかね。しかも全員が集団生活して、彼らの宿舎には、大学生の数を現在の2割ほどに削減して、要らなくなった大学・短大・公民館などの建物を改造して充当するのだという。うっへー、何考えてるの? 
 〈内外識者10人「私はこう考える」〉のなかでは宮崎哲弥の意見(日本人だけで「国家」を支えるより外国人労働者受け入れのハードルを低くせよ)が唯一的を射ていた。
 ああ、もう寝なくちゃ。つづきは明日。


1998年03月26日(木)

 昨日の「SAPIO」の「国民皆ボランティア」制度についてのつづき。

 その間の賃金はそれぞれの雇用主が負担する

 自分で会社を経営している人間はどうするんだ? 今や社長1人従業員ゼロなんて会社はごまんとある。事業をたたんで社会貢献しろってか。

 やむを得ない理由により参加できない者は、毎月の収入より月額5万円の免除費を2年間支払うこととする

 「やむを得ない理由」って何だ? 僕ならたとえ毎月10万円とられたって、そんな集団行動はごめんこうむるぞ。そんないい加減な定義で抜け道をつくったら、金持ちとか有力者にコネクションのある人間は必ずインチキをする。「SAPIO」って性善説の雑誌か?

 常時、年間約100万人がボランティアに従事する

 20歳から40歳までのすべての男女が20年間のうち2年間「ボランティア」するってことは対象人口の10分の1の筈、20歳から40歳までの日本人て1.000万人しかいなかったっけ? 「10歳未満の子どもを持つ母親」の免除規定を最大限利用して女性の大半が義務を免除されたとしても、よほど「やむを得ない理由」を拡大解釈しなければ、100万人という数字は導き出せない筈(算数に弱いので、考え方が間違っているかな?)。
 もともと真面目に考えてつくられた制度案じゃなかったのかもね。「文部大臣緊急アピール」でも読んで「心の教育」をやり直した方がいいかも。
 昨日も書いたけど、宮崎哲弥はなかなか的確なことを述べている。前に『正義の見方』も読んだけど、保守系の人としてはバランス感覚のある人だ。もし書店で立ち読みするなら、この部分だけ読めば充分だ。
 うっひゃっひゃー。


1998年03月28日(土)

 「亀王先生 いますぐリンク」を設置した。


1998年03月30日(月)

 呉智英『危険な思想家』(メディアワークス)を読んでいる。

 人権思想はイデオロギーにすぎない。しかも、そのことに気づくモメントを完全に欠落させている点において、人権思想は最も悪質なイデオロギーである。私の言いたいことは、ほぼこれに尽きる。(p.62)

 この人、確かに、硬軟とり混ぜ、本はずいぶんとたくさん読んでいるみたいだね。その引用の巧みさ、それを支える暗い情熱にはほとほと舌を巻く。しかし根本のところで疑問が湧くね。
 人権思想がイデオロギーに過ぎないのは当たり前のことじゃないのか。そんなことは誰だって知っていることじゃないのか。だって思想=イデオロギーなんだから。
 世の人びとは人権真理教のマインド・コントロールに思考支配され、人権思想が人類の発明した単なる概念装置に過ぎないことを忘却している、自分がその虚妄を暴く、というようなことを書いているけど、なんだか大袈裟だね。
 民主主義や人権思想はもちろん人類の発明した数多くの概念装置の1つにしか過ぎない。しかし今までに試された数かずの政治装置/権力装置のなかで最も歪みの少ないものである。これが普通の人びとの一般的な認識じゃないのかね。少なくとも僕はそう思っていたけど。

 こんなことは、大学の政治学の講義では必ず習い、まともな政治学概説書には必ず記されている。しかし、大学の政治学講義を受講し、政治学概説書を理解できる人は、日本の人口の数パーセントもいないだろう。その数パーセントのエリートのみが、民主主義の密教として、民主主義は単なる政治のやり方以外の何物でもないという真実を開示される。残りの愚昧な多数民衆は、まともな政治学者なら誰一人として笑殺しないものはない妄想的神話を、民主主義の顕教として頭の中に叩き込まれる。(p.165)

 うっひゃー。「週刊新潮」を読んでいる自慰オヤジたちが「数パーセントのエリート」だとは今まで、全然、知らなかったよ。
 「あとがきに代えて」で「差別もある明るい社会を!」をスローガンに、東京都知事選挙に立候補する夢想が語られているけど、そんなに差別真理教を広める教祖さまになりたいのかね?
 人間の社会や心理から差別を完全に消失させることはできないだろう。なぜなら差別する心は人間が生きていくうえで必要なエロスを汲み上げるまさにその源泉と深く結びついているからだ。

「喉が乾いた、ビールを飲む、うまい!」
「横に女がいる、きれいだ、やりたい!」
「すてきなワンピース、買った、うれしい!」
(村上龍)

 美しい女を美しいと感じ、美味な食べ物を美味と感じる心性のうちにこそ差別する心の芽生えがある。そしてこれを完全に否定しきってしまっては、人間が生きていく悦びの完全否定につながってしまう。そこに人権思想の困難さがあるのだ。
 人権思想は真理教などという形而上学ではもちろんない。人びとの日々の実践のなかで常に試されつつある個々人の倫理上の課題である。人権はもちろん天賦ではない。それは普遍概念として社会的に要請されている。人権は人びとの日々の実践のなかで初めて獲得される未来へ向けての可能性なのだ。
 だいたい人権思想に守られていなかったら、呉智英なんて、体力なさそうだし、生意気なことを散々あちこちに書き散らし、語り散らしていて、真っ先に血祭りにあげられるぞ。


1998年03月31日(火)

 明日はバカの日、掲示板に何か面白い投稿でもしてちょうだい。うひゃひゃひゃひゃ。



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