偶然、街で出逢ったら、そのとき初めて可能性が生まれるのだ、と私は自分に言い聞かせています。そのような声を聴いた気がする。いつ、とは言わないにせよ、ある遠い日に。
ねえ、校門の前で待ってるから、三時に、と彼女は言った。それは僕が十八歳のときのことだから、今から数えてもう何年になるのだろう。その間に合州国では大統領選挙が三回あったし、ソヴィエト連邦では書記長が三回変わった。その頃、僕はまだ大学に入学して間もなかったし、そもそも日本の国に大学というものができてまだ三年しか経っていなかった。当時、大学は横文字でウニヴェルシタあるいはマハアウィッタヤライと呼ばれていた。因みに当時の学生たちは恋愛のことをアモーレ、一緒に寝ることをファーレラモーレと言っていた。だが一部のいわゆる志賀派の学生たちだけがアモーレのことをアムール、ファーレラモーレのことをフェールラムールと言って、一般の学生たちからはかなり浮き上がった言葉づかいをしていた。近代日本語の揺籃期だったのだ。“エグゾセする”という言葉がはやったのもこの頃だ。
十七日戦争の終結の後、世界の言語は揺れていた。ブリタニア王国ではシェイクスピア&シェイクスピアらによって文字改革運動がレギナ・エリザベータ二世の庇護のもとに展開された。それまでの行き過ぎたラティニズムを廃し、シニシズムを顕揚する運動だった。
たとえば Britain は以後、不列顛と綴られたし、democracy のオルトグラフは徳謨克拉西と定められた。正書法のまだ確立していない語彙についてはいわゆる莎式注音字母の使用が推奨された。
ガリア・トランスアルピナ地方においてはラ・ゲール・シヴィル(内戦)の混乱のなかから北のラングドイルと南のラングドックが分裂し、さらにいわゆる少数民族復権の流れのなかから今までジャルゴン、パトワと呼ばれて蔑まれてきた数多くの民族語が甦った。イル・ドゥ・フランス共同租界においてアントワンヌ・リヴァロルは
Ce qui n'est pas branche n'est pas gaulois
と宣言し、ここに新たな百家争鳴・百花斉放のピジニザシオン=クレオリザシオンの時代が始まった。
日本においてはどうだったか? 僕はそのとき三時に校門の前で石川舞子ちゃんと待ち合わせをしていた。
ごめん、待った? と僕は言った。
彼女は薄水色のふわふわとフリルのついたワンピースを着て、週刊マーガレットを小脇に抱え、校門を出たり入ったりしていた当時平均身長がまだ三十センティメートルくらいはあった中国人留学生たちを眺めていた。時刻は三時五分過ぎだった。中国人たちは(僕たちは彼らをチャイナマンとかチャイニーとか呼んでいたが)変な記号を交換して訳の判らない事柄を議論し合ったり、好好学習天天向上、と呟きながら赤尾の〈豆単〉を読んだりしていた。
彼女は僕の姿を認めるとニコッと笑って、今日の朝、庭先で一羽のアヒルがガーッと鳴いたが、そのとき私は庭園というものが人間の精神に対して果たす独特の役割というものを、たとえばテクネーとピュシスとの相関として、またサイエンスがなぜ他でもなく“西洋”に発展したのかということをも含めて、初めて理解することができたような気がする、と僕に話した。
僕は、今・ここにおける快楽の引き延ばしが常にすでにいわば一つの欺瞞であり、かつあったこと、だから僕たちは今もそうであり、またこれからもそうであるように、直接的なコミュニオンが全面的かつ絶対的に解放するであろうあらゆる可能性の中心に位置する欲望の源泉としての愛の不可思議さとその理不尽さとを充分に胸に噛み締め、かつ最終的には“他者”でしかないところの“あなた”という存在を前にしたときのこの“私”の顫えと慄きとを肯定的に承認したまま、Ti
voglio bene と囁くだろう、と彼女に言った。
彼女は十月の空を見上げ、美しい女はこの秋日の陽射しを全身に浴び、傷ついた心を癒すため、ミスター・ドーナツが食べたいのだ、と宣言した。
僕たちは自転車に乗って、角を曲がったところにある最近オープンしたばかりのドーナツ・ショップへと向かってペダルを踏んだ。
ねえ、舞子ちゃん、と僕は言った。最近、またチャイナマンたち、サイズが縮んだと思わない? 僕は何回も車輪の下に彼らを轢き殺しそうになり、ハンドルバーを右に切り左に切りして彼らをよけながら、わずか百メートルばかりの距離をようやっと進んだ。一年前までは確かにチャイニーたちの身長は一メートルは優にあった筈なのだ。だがいつの頃からか僕の記憶にはある微妙な揺れが生じ始め、その辺の事情は今一つはっきりしない。
ミスター・ドーナツの前にサイクルを停め、彼女は中国人ぽく笑いながら、私たちだって四川省に行って川巡りさえすれば、毛沢東よりか小さくだってなれるわ、と僕に言った。
僕はそれももっともな話だと思い、うん、そうだね、と言って頷きながら、川巡りに関する小さな記事を以前、外電か何かで読んだことがあるような気がしていたけど、あれは実際本当のことだったんだ、と思い、一人で合点した。
川巡り いよいよ実用化 四川省
【成都十六日=共同】新華社電によると、中国では現在、四川省を中心に、人民中国成立以来、徐々に推進されてきた身体縮小計画のいよいよ最終的な実現段階を迎えるに至っている。いわゆる一人っ子政策が国内ばかりでなく、米国の人権擁護団体や議会などからも基本的人権の侵害であるとして激しい批判にさらされている今日、人口過剰に悩む中国として、それに替わる代案として、巡游河川研究院において長らく極秘裡に研究されてきたものが、ようやく実用化の段階を迎えたわけであり、関係各方面から歓迎の声があげられている。
中国 人間を小型化? ヴォネガット氏語る
【香港十六日=共同】香港の中国系紙、文匯報は十六日、中国において長らくその因果関係が議論され、またそれに関する数多くの研究論文が発表されていながら、当局からはその間の繋がりについて公式には否認されてきた長江流域におけるいわゆる短身族の存在と川巡りの間の因果関係について、米国の中国専門家でありまた小説家でもあるカート・ヴォネガット氏の香港商工会議所における次のような趣旨の談話を伝えている。「なんでも中華人民共和国の科学者たちは、人間を小型化する実験にとりかかっているらしい。そうすれば、たくさんものを食べなくてもすむし、大きな服を着なくてもすむからである」ヴォネガット氏は先週来、四川省成都において開かれていた省政府主催による人口問題に関するシンポジウムに来賓として招かれていたが、そのおり、巡遊河川研究院の研究員に近い筋から、匿名を条件に、短身族の存在と川巡りの間の因果関係について、確かな感触を得た、ということであった。
ところで僕には一つの失われていた記憶がある。原風景とでもいうのだろうか、長い間、忘れていたのだが、ある日、夢のなかで突然、思い出した。まるで閃きのようにして。
僕がまだ生まれて間もない頃の東京の中心部には(多分、今の青山墓地のあたりだろうと思うのだが)かなりの広大な範囲にわたりまるでアリゾナの沙漠地帯を思わせるようなカクタスの原野が開けていた。そこを確かに大人たちの運転する4WD車で風を切り駆け抜けたような気がするのだ。そして荒野の果てるあたりには白堊の高層建築群が夕陽を背にして眩しいほど鮮やかに浮かび上がり、まるでセントラル・パークから望んだ摩天楼のようだった。
それだけの記憶だ。夢のなかで確かに僕はそれが夢だと意識していたし、それが長い間、忘却され、沈潜していた子供時分の記憶であり、そしてなぜだか知らないが、たった二、三十年前のことなのに、今では日本人の誰もがすっかりそのことを忘れてしまっている、と思った。そして朝、目醒めたとき僕自身そのことを忘れてしまっていることのないように、このことをしっかりと胸に刻みつけておこうと決意したのだ。
ドーナツを食べながら彼女が言った。
ねえ、あなたの夢の話だけど、私の記憶では私たちがまだ小さかった頃の日本は“ちゅういんがむ”とか“ぎうみしょこらとぅる”とか呼ばれていた言葉の不自由な人たちが(彼らは恋愛のことをファック、一緒に寝ることをインアウト・インアウトと言っていたわ)黒船に乗って大量にやって来て、DDTだとかPXだとか、あと鈴木健二なんていう乱れた日本語がストリートで囁かれていた時代じゃなかったかしら? 東京オリムピアードが開かれるずっと以前の、まだ朝鮮戦争もヴィエトナム戦争も始まらない前の、そう、ベニート・ムッソリーニがヨーロッパ戦線で大勝をして、ナツィオニ・ウニテ(O.N.U.)がリングア・イタリアーナをO.N.U.のリングア・ウフィチャーレに指定した頃、中国で毛沢東がダライ・ラマ十四世と歴史的な囲碁首都決戦をして大敗し、延安に亡命政府を築いた頃、ビキラ・アベベがハイレ・セラシエ一世とローマのストラーダを裸足で駆け抜け、飢餓救済とアフリカの民族の統一とを世界の民衆に激しく訴えたあの頃、まだ東京がTOKIOと呼ばれていた時代の焼け跡のなかの日本ではなかったかしら?
彼女はそう言って珈琲を飲み干した。
開放的な造りの店内にはさっきからずっとザ・ローリング・ストーンズの音楽が流れている。ベル・ボトムのジーンズを穿いて髪を肩より長く垂らしたメックがチャラスをまわして眼をとろんとさせながら“仮面の告白”を読んでいる。その隣りのアメリカン・インディアンみたいなナナが“エクスプレス ヒンディー語”を拡げてノートにデーヴナーグリー文字の練習をしている。髪をクロース・クロップに刈って黒い衣裳に身を包んだカフェバー・キッドが“空手バカ一代”を読んで涙を流している。ヴィブギオールの頭髪をハリネズミのように逆立てレザー・ジャケットを着てアクセサリーをちゃらちゃらいわせたパンクスたちが“実存主義はユマニスムである”を輪読してパンツを精液に濡らしている。織田信長の草履を前に寺山修司と竹下登が“諸橋轍次大漢和辞典”について激論を戦わせている。
僕は、いつの時代にもザ・ローリング・ストーンズのオジサンたちは偉大だったんだ、と思いながら、ミック・ジャガーの分厚い唇を思い出して、ドーナツを齧った。
彼女は、パンテオンのすぐ近くにあったリセに通っていた十五の夏、その夏はママンが(もともとママンは私と違って身体があまり丈夫な方ではなかったんだけど)風邪を拗らせてしまって肺炎を起こし、、ヴァカンスが急遽取りやめになって、なす術もなく、オピタルに一日に一度、ママンのお見舞いと身の回りの世話をしに行くこと以外はすることもなくて、フランソワもカトリーヌもコパンたちはみんな地中海の明るい太陽のもとへと家族と一緒に遊びに行ってしまったし、観光客ばかりのあのうつろな街にただ一人何となく取り残されたような気がして、ただ当てもなくあちらのカルティエこちらのカルティエを歩き廻って、ときには街角で声をかけてくる見知らぬティップやメックたちの跡をついて行って、今にして思えばぞっとするようなことも平気でしたし、あの頃はまだ子供だったんだな、と自分でも思うけど、でもあの頃の自分は少なくとも今の私よりかずっとずっと自由だったような気がするわ、と僕に行った。
僕は、君がまだリセエンヌだった十五の夏、この極東の島国の首都にある松沢病院の特別病棟の十五号室で、看護婦たちから正しいムキンポの行き方を学び、毎夜毎夜彼女たちから優しく手ほどきを受けながら、昼は昼で“純粋理性批判”と“街のオキテ”を無理やり読まされ、三度の食事には決まって肝油ドロップを食べさせられながら、如何にしてよい人妻になるか、の研究をさせられていた、と彼女に言った。
彼女は窓の外へと視線を走らせた。広い窓硝子の外を一匹の“何だか不思議なゴム草履の怪物あるいはウルトラマン対ガッチャマン”のようなものが通り過ぎていくのがぼんやりと見えた。“何だか不思議なゴム草履の怪物あるいはウルトラマン対ガッチャマン”のようなものは通り過ぎる前、ドーナツ・ショップにいる僕たち全員を振り返り、次のような言葉を残していった。
いびつのまんこちゃん!
僕たちは“何だか不思議なゴム草履の怪物あるいはウルトラマン対ガッチャマン”のようなものの跡を追いかけてミスター・ドーナツを後にした。“何だか不思議なゴム草履の怪物あるいはウルトラマン対ガッチャマン”のようなものは僕たちの追跡に気がついたのか、はたまた余人には窺い知れない秘められた理由によるのか、はたと立ち止まり、バセドー氏病! と叫ぶと、自動販売機からヤクルト・ジョアを一本買って、一口に飲み干し、次いで僕たちの方を振り返った。
緑色の目脂の溜まった眼で僕たちを見つめ、何だ何だこんな何だ そんなそんなそんな何だ どうだどうだ何だどうだ あんなあんなあんなどうだ こんなこんなこんな何だ 何だこんなどうだどうだ、と呟くと、べっかんこうをして、全速力で駆けて行った。
僕たちは跡を追うべきかどうか迷ったが、自転車のペダルを勢いよく踏み込み、さらに一キロほど追跡を続けた。の・ようなものは途中、チャイナマンたちを踏みつけたり、呑み込んだり、合体したりしながら、次第に速力を速め、黄色い粘液を分泌したり、赤色光線を放射したりしながら、段々と液体化し、遂にはストリートいっぱいにはみ出しながら、明治通りを左折して新宿方面に向かって姿を消した。
Eyewitness A
私はそのときちょうど三時に校門の前である女性と待ち合わせをしていて、たとえば私は彼女をどのようにも想像することができたのだし、あるいは彼女は中国人で小指が一本足りなかったり、また東欧から流れてきた青い眼の貴婦人であったかもしれない。いずれにせよ私は彼女、敢えて名前をつけるとするならば、Oとかまた石川舞子ちゃんとかとでも呼ぶほかはないであろうその女性に対し、ほのかな、というよりもむしろ、激しく疼くような欲望を感じていた。
Eyewitness B
たとえば彼女は、私が例の、の・ようなものの跡を追いかけ、学生のやたらと多いこの街を、自転車を漕いで全速力で駆け抜けたあの十月の日に、街で偶然見かけただけのただの何でもない女の子であったのかもしれないのだし、事実、彼女は私に向かって、捜しものは見つかりそうですか? とは言わなかったのだし、私の方でも彼女に対し、ええ、眼の前に、それはあなたです、とは言えなかった。つまり、二人は、まだ、あのとき、初心だった、と、言ってみることは、そもそも、可能、だろうか? だが、いや、あれは、そもそも、そうではなくて───
Eyewitness C
それは敢えて喩えてみるならば、いや、喩えるまでもなく、私はそのときそこで彼女を見かけたのであり、当然の如く彼女は一人ではなかったのだし、自転車に乗って楽しそうに行く彼女の後ろ姿は、何か直視することのかなわぬ理不尽な不条理とでもいうべき存在様式を見事に体現していて、私は何かひどくぼんやりとした思いにとらわれてしまい、しかも自転車の籠からダンキン・ドーナツの紙袋が奇妙な猥褻感をもって覗いていたのは、何かとても痛ましいことのような気がするのだが、だからといって私は、私の方が彼女を愛している、だの、私こそが彼女に相応しい、だのと、ここで、あなたに向かって、主張するつもりは毛頭ないのだし、〈あなたにだってそんなことはもちろん判っている筈だ!〉
僕たちはさらに高田馬場の方角に向かって自転車を走らせた。駅の近くの映画館でやっているオードゥリ・ヘプバーンの ROMAN HOLIDAY を観るつもりだった。
サンタ・マリア・イン・コスメディン教会にあるボッカ・デッラ・ヴェリタに恐る恐る手を突っ込んでみたり、ローマの街をグレゴリ・ペックとヴェスパに乗って颯爽と走り廻る姿は、いつだって僕たちを妙にセンティメンタルな気分にさせる。
僕はレスター・スクウェアにある映画館に ROMAN HOLIDAY をOと一緒に観に行ったときのことを思い出した。僕たちはあの晩、喧噪のウェスト・エンドを幻のヴェスパに乗りどこまでも仔犬のようにじゃれ合いながら走り続けた。ポプコーンのように弾けるストリートには陽気なチックやブロウクたちが溢れ、パブから聴こえてくるコクニーの響きやバンドのギグが、僕たちのマインドを昂揚させた。
あのとき彼女は、あなたとならこのままジブラルタルだって越えられそうな気がする、と僕に言った。
僕は彼女について以前こんなふうに書いてみたことがある。
だが、〈彼女〉とは一体何者なのか? という問いが発せられなければならない。
今年の夏こそは彼女は日本を訪ねて来るだろう、という期待を抱いて僕は十一月の東京へと帰ってくる。バンコクを午前二時に飛び立った飛行機は途中マニラを経由して正午過ぎには成田へと降り立つだろう。一年ぶりのあるいは半年ぶりの日本。出迎える人もいないまま、僕は新宿行きのリムジン・バスに乗るだろう。
I have been thinking of you, especially this period when I am regularly
attending my Japanese class. I hope I will be able to visit Japan before
I leave Australia. I am definitely thinking about that.
僕はそのような文面の手紙を繰り返し読む。それはときには英語でときにはフランス語で書かれているだろう。長い旅から帰るたびにそのような手紙が必ず一通フラットの郵便受けに紛れ込んでいる。だが彼女は遂に日本を訪れることなく(ヴァカンスにはカトマンドゥでなくTOKYOを選ぶことだってできた筈なのに。
Dear Mkimpo, I am spending a month in Kathmandu.)あるいはヨーロッパへと帰って行く。だが僕の方から彼女を訪ねることだって(彼女がイタリア語とフランス語そして彼女の母語であるマケドニア語を教えているというウェスタン・オーストラリアのカレッジへと、またヨーロッパへと)不可能ではない、ということは確かなことであって(現に彼女も
It seems that it would be much easier for you to come to Australia than
for me to come to Japan. If you could 'jump' over to Australia, you would
be very welcome. It would be one more travelling adventure for you. と書いている)、僕はそのような自分を夢想する。だが現に彼女の住む季節の逆立つカンガルーの国は僕の世界地図の上にあってはアフリカよりも遠くあるのであって(今・ここにおける彼女の不在とそこにおける彼女の現在、彼女の生活! 英語を母語として話す白人たち───そして彼女もまた同じコーカソイドに属するのだが───白い歯を見せて健康そうに笑う小麦色に灼けたテニス・ボーイたち、サーフィンとスキューバ・ダイヴィング、そしてローラー・スケイトの得意なスポーツマンたちに混じって、彼女もまたヴェスパにでも乗って街を軽快に走り抜け、週末にはスクウォッシュでもして汗を流し、ヨットのデックでカクテルでも気持ちよさそうに飲むのだろうか?)、彼女はここからは遠く引き離されている、と感じるのだ。嫉妬の念が僕をそこへと向かわせなくする。だが誰に対する
jalousie なのか?
私は結婚しているの、と彼女は言った。
え? と僕は言うだろう。
テムズ川の南側に拡がる住宅地の片隅にある彼女の部屋で僕たちはサンドウィチを食べながら紅茶を飲む。あるいは近所のアイリッシュ・パブでバンドの生演奏を聴きながらパイント・オヴ・ラガーを飲むだろう。いずれにせよその瞬間に僕は彼女が好きになるのだ。mon mari
という言葉を聞くたびに僕は彼女を抱き締めたくなる。
私の夫はゲイなのよ、と彼女は言った。
たとえば彼女は〈Kangourou〉という本を書くだろう。あるいは〈Ornithorynque〉という本を。そこにはカンガルーとカモノハシについてのあらゆる調理の仕方が書いてあってオーストラリアへの恰好の旅行案内書になっているのだ。その本を二冊バッグに詰めて僕はパースの空港に降り立つだろう。
するとカンガルーの奴がこう言うのだ。
そんなこと言ったって、ムキンポさん、私たちカンガルーにだって生きる権利はあるんだ! カモノハシの奴らなんかと一緒くたにしないでください。
僕たちはさらに高田馬場の方角に向かって自転車を走らせた。
彼女は、あなたとならこのままジブラルタルだって越えられそうな気がする、とあのとき言った。
トンブクトゥもキリマンジャロも幻のヴェスパさえあれば誰にだってすぐ行くことができる。ただいつだって気づくのがただちょっとだけ遅いだけだ。そうして気づいたときには、もう井戸を守るトゥアレグの女は死んでいるし、“神の館”に豹はいない。
僕たちはもう一度振り出しに戻る。
あるいは僕は彼女についてこんなふうにも書くだろう───
失われたわけではなく、それは初めから不在としてのみ僕の心に忍び込んできたのだったし、そもそもの初めからそれは僕の心の満たされぬ部位に満たされぬ思いとして空洞を穿ち、ぽっかりと空いた虚ろなうろがすなわち僕を暗い闇から揺り動かして僕にこのような思いを吐かせ、だからこそ僕は〈彼女〉という名の永遠の神話を繰り返し語りつづけるシーシュポスの連環のなかへと宙吊りされて、いつまでも言葉が語り継ぐ物語の領域へと囲われていき、あるいはそのような身ぶりのなかで自らをそのような場所へと導いていきながら、〈彼女〉という誰もが一度は見たことのある物語の王国への扉の鍵を───開けるのだ。
ねえ、遊びに行かない? と彼女は言う。ねえ、お腹がすいたわ、とも彼女は言うだろう。その気にさえなれば、彼女は何だって言うことができた。たとえば、動物園のゴリラの檻はシマウマの檻の隣りにあるのよ、私は元気なアヒルです、カレンダを捲るたびコンピュータの気持ちが判るんです、などなど。彼女はまた詩を書いたり編み物をしたりアイス・リンクに出かけることだってできるのだった。
彼女の前にはすべての可能性は開かれていた。彼女の前にはすべての不可能性さえ閉ざされてはいなかった。彼女はあらゆる意味において〈完璧〉だった。
たとえば、嘘つきね、と彼女は言う。そのとき僕は心の底から〈嘘つき〉になれるのだった。あるいは、嘘つきってどういう意味? と訊ね返すことができるだろう。
彼女の前にいると、何でもかでもできそうな気になれた。だから僕は〈嘘つき〉にだってなれるのだった。あるいはそのために、嘘をつくことだってしてみせるだろう。たとえば、彼女はあらゆる瞬間に嘘をついた。彼女の存在そのものが嘘っぽかった。
あるいは僕は彼女をどのようにも想像することができるのだった。彼女は小指が一本足りなかったし双子で中国娘で絵描きの卵でヴェジタリアンだった。彼女は石川舞子ちゃんという名前だった。彼女は───
僕たちは一九八×年五月のある晴れた日曜日の朝、忽然としてどこかで出逢った。
どこか、というのは多分、パリ、そうでなければ、ロンドンかニュー・ヨークなのだった。あるいはそこは上海だった。
だから僕は、儂早(ノンゾー)! と言った。
彼女は表演隊に所属していて、たとえば中国でポカリスエットを初めて飲んだのが彼女なのだ。
彼女はアルカリ質の躰をしていて、僕に向かってこう言った。
Everyday I am alkalifying.
彼女の好物はリトマス苔とホウレンソウの油炒めで、彼女のPHはいつでもだいたい八から九の間だった。でもセックスの後にはたまに十四になることもあるのだった。そんなときには青い顔をしてサラサーテのツィゴイネルヴァイゼンを聴くのだった。だから僕はヴァイオリンの練習を毎日した。
僕たちは秋にはキノコ狩りに信州の山奥まで出かけたし、冬にはお汁粉を食べに青森のお婆ちゃんの家まで遊びに行った。春には喧嘩をして毎日箒で戦争をしたし、夏には仲直りをして青山のペット・ショップまでブルドッグの赤ちゃんを貰いに行った。
君は綺麗だし、可愛いし、魅力的だし、僕は君のことが好きなんだし、何て言うのかな、君のように素敵な女の子が、男たちからちやほやされるのは当然だって思うんだ、と僕は言った。
あるいは僕はこう言った。
なんたってペリカン!
僕たちは、そう、あかるい部屋のなかで、七月のよく晴れ高原の午後の、あるいはきらめく陽光が眩しく光り輝く海辺の午後の───それはいつだったか、遠い微かな夢のような記憶、いつか観たことのある映画のなかで、僕は確かにその部屋を訪れたことがあった筈だ、そこには白いレースのカーテンごしに暖かな溢れるような光が射し込んでいる筈であり、僕は少年時代、書架にある父の蒐めた百科事典やや美術全集を繙いて、遠い異国の人びとの生活に思いを馳せた、世界には六千五百の民族と五千ないし八千の言語、約四百種類の文字がある!─── まるで恋人同士のように話し合った。彼女は中国訛りの抜けきらない特徴のある日本語で、子供の頃の春節(チュンジエ)の思い出について語った筈だ。
それは誰にでもあるありふれた懐かしい少女時代の記憶であり、僕自身、幾度となく反芻してきたセピア色の物語であり、テクストのうえに重ねられたテクストとして、それはつまり、僕の精神の表層を揺動する幼年期が彼女というメディアを通過した軌跡としての新しい
textualite ───それを僕は彼女への愛と呼ぶだろう───なのだ。
だが、〈彼女〉とは一体何者なのか? という問いが発せられなければならない?
僕たちはさらに高田馬場の方角に向かって自転車を走らせた。通りを行き交う人びとの群れは誰も彼もがまるで申し合わせでもしたかのように“中国語”を使って何か訳の判らないことを話し合っていた。若い女が〈犯狂獄猥狒猟猩猴猖獗狼狆狎〉と言うと、連れの男が〈鯵鮎鰯鰻鰍鰹漁魚鯨鯉鮭鯖〉と言って大声で笑った。僕は何かやり切れない気持ちになった。だが気がつくと僕も彼女もいつの間にやら“中国人”になっていて変な記号を交換してやはり訳の判らないことを話し合っているのだ。僕は腕をぶるんぶるんと振り廻しながら〈鵜鴨鶏鴻鵠鴫鶴嶋鴇鳩鵬鵡鳴〉と言って大声で笑っている自分がどうしても信じられない。だがそう口に出そうとしても思わず〈娃姶姐姥姦婚嫉娼嬢娚嬲妍〉と言ってしまうのだ。
僕は絶対中国人になってしまったのだろうか? それともここは相対中国なのだろうか?
【絶対中国人になるための六章】
【1】 絶対中国人はいつ如何なるときにも、何らかの発話を行う場合、共時的及び通時的視点からみて考えられる現在の言語状況において可能なサンタグムとパラディグムの二つの軸におけるあらゆる構成と要素の選択の可能性について、そのパースペクティヴを常に明確に意識していなくてはならない。つまり言葉はいつでも括弧に括られた状態で発せられなければならない。なお括弧は“ ”でなくとも「 」、〈 〉、【 】、『 』などどれを使ってもよい。
【2】 絶対中国人はいつ如何なるときにも、【1】において言葉を括弧に括ったのと同様、身体、行動、属性などをも括弧に括らなければならない。つまりあらゆる仕草、表情、身振り、動作、性別、年齢、化粧、衣裳、装飾、住まい、出身、階層、家族、友人、学歴、職歴、国籍、民族などは記号として分析され、消費されるが、そのとき如何に“買売(マイマイ)”の立場を持ち込めるか、換言すれば、如何に“社会”主義的に振る舞えるか、という点が肝要である。そのためには常日頃から“中国語”を学ぶことが望ましい。あるいは“入党”するのも一考である。
【3】 “アメリカ人”はいつ如何なるときにも、“アメリカ人”であって絶対に絶対中国人とはなれない。せいぜいが“ガイジン”とか“グリンゴ”とか呼ばれるのが落ちである。“アメリカ人”は“アメリカーンス”と呼ばれる系統的には英語に近い、文法的に屈折の少ない孤立語的な要素のとても強い特殊な言語を話していると言われるが、まだこの言語の構造は解明されていないし、将来的にもその可能性は少ない。現在、アメリカ大陸において最もポピュラーな言語は
espanol, portugues, francais などいわゆるロマンス系の諸語であるが、“アメリカーンス”は使用地域がニュー・イングランド地方などごく狭い地域(言語島)に限られ、その周囲をインディアン諸語、ロマンス諸語に囲まれ、孤絶しているのでその全容はなかなか掴みにくい。いずれにせよ“アメリカ人”には近づかない方がよい。
【4】 絶対中国人はいつ如何なるときにも、時間と速度の観念を超越していなくてはならない。たとえば“一昨日歩きました”と言うべきところは“前日走ります”と言う。また表面的な現象にとらわれて物事の本質を見失ってはならない。豚はもともとが猪であり、水はいくら沸騰させても蒸発してしまわぬ限りは水である。つまり絶対中国人は絶対に相対的な視点を失わない。
【5】 絶対中国人はいつ如何なるときにも、探求する精神を失ってはならない。絶対中国人は永遠の旅人であり、沙漠のノマドであり、買売(マイマイ)の華僑である。絶対中国人はあらゆるものから学ぶ態度を失わないし、あらゆるものを貪欲に食し、あらゆるものと交通を結ぶ。そのネットワークは世界中を覆い、東夷西戎南蛮北狄あらゆるものは皆、〈六書〉に従い、漢字化される。
【6】 好好学習、天天向上。
Haohao xuexi, tiantian xiangshang.
絶対中国人になった僕たちは国際学生証を窓口に示して、学生料金で映画館に入った。トレイラーに続いて本篇が始まった。僕は映画の上映されている間中ずっと彼女の手を握っていた。彼女の手はしっとりと汗ばんでまるで指の間でセックスしているみたいだった。僕は映画の内容をぼんやりと追いながら、頭の片隅で、以前、彼女と初めてセックスしたときのことを思い出した。
中国人はセックスのときすべて漢字だけで行うのである。まるで小学校の図画か書道の時間のようにして“陰茎”という字を“隠道”という字で囲んだり、また思想感応を使って“勃起”とか“射精”とかいう字を相手の頭のなかへと直接送り込んだりするのである。そうすれば滅多に妊娠することはないし、衛生上も心配がないから、毛沢東はすべての人民に対して奨励している。
僕たちは映画館を出てストリート・ストロールを楽しんだ。レスター・スクウェアには何日か前から移動遊園地がオープンしていて、小規模だがやたらとスピードの出るいろいろなマシーンが、花やかに歓声をあげる若者たちを乗せて、星空と人工照明の下を、賑やかに風を切り走り廻っていた。僕たちもそのうちのいくつかをミッキー・マウスに乗り廻し、“気分はもう花屋敷”になりながら、アイス・クリームを舐めてコヴェント・ガーデンの方に向かってぶらぶらと歩いた。
季節は夏だった。
細い路地に面した一軒のパブに入って、彼女はシャンディを、僕はラガーを注文した。
僕たちは今度の週末の計画について話し合った。
もし晴れていたら、コーチに乗って、ブライトンかドーヴァーまで泳ぎに行こう、と僕は言った。
もし雨降りだったら、テューブに乗って、“トマトケチャップ皇帝”をナショナル・フィルム・シアターまで観に行きましょう、と彼女は言った。
フー・マンチューが僕の肩を叩いて、寺山修司は一九八三年、享年四十七歳で敗血症で死んだ、惜しい男を亡くしたものです、と言って、僕たちの間に強引に割り込み、僕に手を差し出して握手をすると、早口の呉方言で何かを言って、素早く彼女とキスを交わした。フー・マンチューは彼女がときどきみてもらっているヴィダル・サスーンの美容師だった。
彼は、華氏を摂氏に換算するにはまず三十二を引いて次いでそれに九分の五をかければいい、とか、世界中のすべての民族がメトリック・システムを採用するようになれば、チョモランマ峰の高さを足の長さを使って測定するのは遂にはジョン・ブルとヤンキー・ドゥードゥルとだけになるだろう、とか、何とかいう朝鮮人の歯科医がハングル文字を使ったまったく新しいタイプの世界共通語案を発表したが、それはアルタイ語族の語彙と文法とを下敷きにしていて、キム・ジョンイルがそれを熱心に支持している、とか、どうでもいいようなことをべらべらと喋った。
僕はいい加減うんざりして、早く彼がどこかへ行ってしまえばいい、と思った。
だが彼はさらに続けて、イスタンブールの動物園にいる犬と猫と牛と豚と鶏の話、とか、ナンシー・レーガンが丹波哲朗の密かなファンで東京サミットのとき二人でこっそり逢っていた、とか、モアマル・ガダフィが実はフィリピンで整形手術を受けていた、とか、何が面白いのかよく判らないことを延々と際限もなく話し続けた。
彼女はフー・マンチューのトーキー・トーキーを頻りに頷いて聞いていたから、僕はこの場の主導権を僕の方に取り戻すきっかけをなかなか掴めないでいた。何だか僕だけが除け者にされているような気になってきた。
英語で話しても普通話で話しても到底二人のスピードにはついていけなかった。かといって下手糞なフランス語で突然話し始めるわけにもいかなかった。そのときそこはパリではなくてロンドンだった。そこはカフェではなくてパブだった。二人は日本語が話せなかったし、僕は上海語が話せなかった。
僕は、おまえのかあさんでべそ、の気持ちだった。
フー・マンチューが、今日、ここに来る途中、シャフツベリー・アヴェニューを歩いていて、“何だか不思議なゴム草履の怪物あるいはウルトラマン対ガッチャマン”のようなものを目撃した、と言った。
それはどんなものだい? と僕は訊いた。
そいつはちょうどあんたみたいな顔をしていたな、と彼は言った。
僕は、ついでにおまえもでべそ、の気持ちだった。
僕はカウンターに立ってもう一杯ラガーをおかわりした。ジュークボックスにコインを入れてマイルズ・デイヴィスを選曲した。
席に戻ると、フー・マンチューが彼女の手を握って何か一生懸命に話しかけていた。
僕は、こんなそんなあんな何だどうだ、の気持ちだった。
まるで二人とも僕の存在をまったく意に介していないみたいだった。彼女はフー・マンチューと舌を絡めて、うっとりとした表情をみせた。フー・マンチューの赤黒いコックが彼女のビーヴァーに挿入された。彼女の喘ぎがトランペットの音色に重なった。僕は段々と液体化していく自分を持て余し始めていた。まるでいつかオスロの美術館で見たことのある蛭子能収の絵のようにして、全世界がぐるぐると凄い勢いで廻転を始めた。
フー・マンチューは、僕たちはこれからミツコ・ウチダのピアノ・コンサートを聴きに行くんだ、と言って、ウィンクすると、ひとことふたことドーナツとその穴とに関する卑猥なジョークを飛ばして、彼女の腕を取ると、楽しそうに笑いながら出て行った。
後にはなぜか僕一人だけが取り残された。
僕はシャフツベリー・アヴェニューを全速力で駆けた───
たとえばあの頃書かれた手紙や詩や小説やらを読み返すこと。風化した記憶のなかで、それらは今も輝いているか? 少なくとも過ぎ去った一つの時代への礼儀として、僕はそれらを戯画化したくない、と呟いてみる。
〈私はあなたのことを裏切ったと思っています。そう言うのが間違いなら、私はあなたの気持ちにどうやって誠意ある返答をすべきか、およそ見当がつかないのだ、と言い直しましょうか?〉
〈これからの可能性は、もはやないのです。偶然、街で出逢ったら、そのとき初めて可能性が生まれるのだ、と私は自分に言い聞かせています〉
だが、僕たちが再び出逢うことなどあるのだろうか?
僕がシャフツベリー・アヴェニューを歩いて行く。彼女が向こうからやって来る。馬車に乗って。
ねえ、何か面白いことはないかしら? と彼女は言った。
ロンドンが面白い、あるいは君と一緒なら、マチュ・ピチュなんかもいいかもしれない、と僕は言った。
リオ・デ・ジャネイロに行きたいわ、そうでなければガラパゴス。
僕はリオ・ブラボーからパタゴニアまで汽車とバスと船とを乗り継ぎ、すべての街を訪ねてみたい。そのためにあらゆる種類の情報を集め、言葉を学び、時間をつくって。
ねえ、Tengo hambre.
どういう意味? J'ai faim.
それじゃ、ドニ・ドナスにでも食べに行こう。
僕たちは自転車に乗って、高田馬場の方角に向かってペダルを漕いだ。
ねえ、今度の週末、もし雨降りだったら、フィルム・センターにKISS OF THE SPIDER WOMAN を観に行かない?
もし晴れていたら?
流れるプールで泳ぎましょう。
僕は彼女の大胆すぎる水着を想像した。
僕たちはヌーディストやネイチャリストを見ても勃起しない。隠された性器だけが僕たちのペニスに血液を送る。僕たちは迂回路や接続法や自由間接話法を使ってセックスする。視線の交錯のなかで限りなく欲望が増殖し、視えない薄膜の向こうでシャクティの夜が膨張する。赤道の南側では今も多産と豊穣の儀式のなかで巨大なリンガが激しく蠢く微細なヨーニを突き裂いている。そして黒い肌と白い肌のまぐわいのなかから新しい子供たちが生まれるだろう。
ヴァカンスには二人でインディオのプエブロを訪問しよう、と僕は言った。
!Buen viaje ! と彼女は笑った。
サピア=ウォーフは〈イースト・インディーズの位置とウェスト・インディーズの位置とは互いに相関的であり、地理学上のインディーズの概念と音楽産業としてのインディーズの概念とは互いに相補的である。すべてのインド人は嘘つきである、と一人のインド人は言った、あるいは、インディアン嘘つかない、は互いに相似的かっ相殺的であり、インディアンとインディオとは互いに相応的である〉として言語相対論の立場を確立した。
彼はまた〈インディオの血は遠くアジアへと繋がっている。そしてヨーロッパとアフリカは三角貿易を通じて遙かアメリカへと通底している。インド人が鳩という名の一匹の鮫(colombo)によって発見され、今度はスズメバチ(vespa)によってアメリカ人が再発見された。そしてスズメバチ(wasp)は今では
capitalize され、WASPとなって、自由と民主主義のため、“アメリカ”のために戦っている。君たちはそんな彼らに協力するため、毎日、コカ・コーラを飲み、ケンタッキー・フライド・チキンを食べている〉と述べ、文化多元主義的ガストゥロノミーの立場を提唱した。
彼は一昨年、玉村豊男との対談のため来日し、〈文化はその民族の食生活によって影響される。日本人は一般的に言って、米食のため、眼が極端に細くなっており、また無足の動物=魚を好むため、脚がとても短い〉などと述べ、物議を醸した。
彼は全冷中(全日本冷し中華愛好会)の会員である。
僕たちはすべての恋人たちがそうであるように、あるとき街で偶然出逢ったのであり、そしてたわいもない物語の玉繭のなかから、関係の糸を紡ぎあげてきた。これらの文章そのものが、不在としての彼女への愛の告白として、それら終わりなきイストワールに連なるべきいくつものエピソードの一部であり、終わりなきエクリテュールのかりそめの出発点であり、僕から“あなた”への〈出されなかった手紙───承前〉なのだ。
彼女は常に美しく、眩しく光り輝いていなければならなかった。あるいは僕の願望として───
常にすでに“他者”でしかないところの“あなた”へのデジールは、永遠の宿業のようにして、僕をディスクールの運動へと駆り立てる。
僕は“あなた”と書くだろう。
僕たちは再び出逢うだろう。
そして新しい物語が語られねばならない。新しく生まれ出る言葉たちによって。
Fortsetzung folgt
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